空襲の子Ⅱ【29】十年間の調査報告 因島空襲と行政(1)

 因島市は、「因島市史」を発行することで因島空襲の事実を抹消し、地域の近現代史を歪めてしまった。歴史研究にたずさわる者が、研究者の名において歴史をねつ造することが、果たして許されることであろうか。


 十年間の調査を通して、犠牲者の数が200人にも及ぶ可能性が浮かびあがっている。当時、因島工場の葬儀委員長をつとめた三浦勉さんは、工場で亡くなった人が100人をはるかに超えると証言した。7月28日の空襲で日寅丸や大玄丸など徴用船の船員15人が戦死した。三庄空襲で犠牲になった住民は、17人と推測されている。公表されていないが、相当数の軍人が死んだことも確実である。
 「因島市史」は1968年(昭和43)3月、市制15周年記念事業の一環として発行された。だが、空襲について「日立造船因島工場」の項で、「しかし第二次大戦中米軍の爆撃にあい、多くの施設を破壊されたが、鋭意回復、整備、今日に至ったものである。」と記したのみである。
 何故、多くの死者が出たと言わないのか。三庄工場も激しい攻撃を受け、住民に犠牲者が出たことにふれないのは何故なのか。従業員や住民が空襲で死んだことなどどうだってよいことだとでも言うのか。明らかに作為がある。事実を知っているからこそ隠したのである。
 編者の青木茂氏は、因島の椋浦町出身である。市立尾道短期大学教授を経て、当時、神戸学院大学経済学部日本経済史教授。中国新聞社文化功労者、尾道市文化功労者を受賞している。
 編者は、大正時代、大戦と敗戦、戦後の混乱期のころの記述が不十分であることについて2カ所で釈明をしている。そのひとつは、「第九節 市町村制施行以後」である。 
―こうした間に、因島では、戦乱と造船景気で、南部の人口が急増し、土生村がまず大正7年1月1日、つづいて三庄村が、同10年6月1日、さらに田熊村が昭和24年4月1日に、それぞれ町制を施行した。これら三町村は、昭和4年と12年の2度にわたり、県の斡旋で合併を協議したが、成らなかった。いっぽう、規模の小さい三浦村は、終戦後の新制中学新設など、財政的に行きづまり、ついに解体、椋浦は三庄町に、外浦・鏡浦は本家である中庄村へと合併した。昭和23年4月1日である。
 この時代の、地方における経過記録はむずかしい。それは敗戦のさい、焼却された書類も多いし、しかもなお、敗戦後の地方行政は、復興のために、全勢力をついやすことにのみ終始したからである。ここでは時代を、市制発足の現代版からにする。
 現在の因島を理解するうえで重要な時代が、焼却されて資料がないとして、すっぽり抜け落ちているのである。「因島市史だから、それ以前はやめて市制施行以降の記述にする」と言っているのに等しい。
 次は、「あとがき」の部分である。
―自然、原始・古代・中世・近世編にウエイトをおき過ぎた結果となった。近世・近代・現代に、もの足りなさのあることを、自分でも感じる。惜しいけれども、近代資料が少ない。敗戦のさい、どこの自治体でも、多くの書類を整理した。マッカーサーの進駐に気をつかったからである。さらにひきつづいて、合併である。
 要するに資料がないのも、近現代の記述が少ないのも、すべて占領軍司令官マッカーサーが悪いというのである。歴史研究を志す者が、これで済まされるとでもいうのか。資料がなければ集めればよいのだ。市役所のなかにそれがなければ、住民に協力を求めればよい。住民からの聞き取りをした形跡はまったく見当たらない。
 マッカーサーに遠慮したのは、編者自身ではないのか。
(青木忠)

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