因島空襲67周年に寄せて地域史の真実に目覚める

明治、大正、昭和、平成と近現代を因島は、造船業とともに歩んできた。尾道市は自らを海事都市と呼び因島と近隣諸島は、今もなお造船の島である。

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慰霊祭(2007年7月28日)


それゆえ、私たちが生きてきた島々は、日清、日露の戦争、二つの世界大戦という時代のただ中を、翻弄されながらも突き進んで行かざるを得なかったのだ。

日立造船因島造船所(土生、三庄)は、県下でも有数の軍需工場になった。近辺では、日産造船(向島)尾道造船所、北川鉄工所(芦品郡)、三菱重工業三原、日立造船向島、三菱電機福山なども同様であった。

因島のふたつの造船所と居住地帯が2度にわたって米軍の空襲に蹂躙された。資料によると、尾道、三原両市も空襲目標に選ばれていたことも分かっている。

こうした歴史的事実は、正しく受け止められなかった。すべての報道機関が、因島空襲の事実を報道しなかったことにも助けられ、自治体と当該企業は隠すことに躍起となった。彼らは住民が無差別に犠牲になった三庄町の惨事さえ記録に残さなかった。

歪められた歴史が公認の歴史として、「因島市史」や企業の社内誌に記され、まかり通ることになった。

しかし、そうした偽りは長続きしなかった。10年前のことであるが、本格的な調査活動が始まるや、虚構は次々と崩れていった。

調査の具体的成果

この一、二年で調査はいっそう具体的な成果をあげた。それは次の諸点において顕著である。

第一に、防空壕調査を通じて因島の三庄、土生、田熊、西浦、重井、大浜の地域が戦場であったことが、確かめられた。軍需工場と陸軍燃料基地があったところである。

因島地域には防空壕が桁外れに集中している。島内でも広い「軍事関係区域」に大部分が分布している。

第二に、三庄空襲の調査の進展である。その結果、土生工場への空襲のものとされていた、米軍撮影の写真が三庄空襲のものであることが判明した。「日立造船75年史」に記されている三庄分工場の平面図とその写真は一致した。

第三に、犠牲者についての調べが進み、その全体数が200人にも及ぶのではないかという推測が成立するところまできた。

当時、因島工場の葬儀委員長をつとめた三浦勉さんは、工場で亡くなった人は100人をはるかに超えると証言した。7月28日の空襲で日寅丸など徴用船の船員15人が死亡した。三庄空襲で犠牲になった住民は、17人と推測される。

いっさい公表されていないが、調査をつづけるなかで相当数の軍人が亡くなったことを確信した。

2回にわたる空襲において、入渠中の艦船や工場内外に配置された軍戦闘部隊が米軍戦闘機と戦闘を行い死者がでたことが目撃されている。

さらに私のもとに、因島工場で戦死した軍人の遺族の方からの連絡が届いた。

第四に、文豪・井伏鱒二が因島空襲の惨状にふれた作品をふたつ残していることが分かったことである。

井伏は占領下の言論統制下であるにもかかわらず、昭和23年1月、「文藝春秋」に「因ノ島」を発表し、撃沈された船舶を描いた。

さらに昭和35年5月の「鞆ノ津付近」でもいっそう表現を強めて書いている。

空襲について因島の住民が沈黙を強いられているなかで示された、作家の良心であったと言えよう。

第五に、空襲直後にこの惨事を後世に伝えようとする努力がなされていたことを、知ることができたことである。

私はつい最近、実父である松本隆雄が空襲で全壊した自宅跡地に三庄小学校の同僚の教員を見学させようと案内した事実を知った。

占領下のことであり、とても勇気のいる行為であったろう。郷土史誌にも自らの戦争体験を記している。

振り返ってみるに父は、私の人生の節目になるところで、空襲の事実を伝えようとしてきたのではないだろうか。もしかしたら、空襲調査の営みを私に託したのではないのか。
空襲から67年の今日、因島はかつてない厳しい試練にさらされている。そうであるからこそ、自らがくぐりぬけてきた激動の島の現代史を正しく認識し、新しい未来を切り開いていくべきなのだ。

(青木忠)

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