空襲の子Ⅱ【27】十年間の調査報告 防空壕の今(7)

 三庄町の塚ヶ浜、神田、小用にかけて展開していた日立造船三庄工場は姿を消したが、その周辺の防空壕跡は残っている。そして、それが今なお、その一帯が紛れもなく戦場であったことを物語っている。


 ここに備後ドックが開設されたのが、1901年(明治34)のことである。3年後の日露戦争の際に数隻の船がここのドックで輸送船に改造されたという。1919年(大正8)に大阪鉄工所が買収、3年後に三庄分工場と改称。1943年日立造船三庄分工場になった。
 「日立造船75年史」は、大正初期の写真と大正八年現在の平面図を掲載している。ふたつのドックと一つの船台がある。場内には、クレーンの線路が張りめぐらされている。仕上げ、鍛冶、鋳物、木型、穿孔、鉄船、製罐、銅、現図、木工場、と八つの工場に分かれ、加えてひとつの倉庫があった。
 大戦末期、この工場は軍需工場としてフル稼働した。大勢の人間が働いていた。正規の従業員に加えて徴用工、英軍捕虜、学徒動員生であった。学徒動員は地元に住居のある土生高女生と、現在の中学生に当たる三庄小学校高等科の生徒たちであった。
 この工場の発展とともに町は栄えた。地元の寺岡康次さんは、「みつのしょう」第118号(三庄公民館広報部)で次のように描いている。

―三庄七区神田にある観音山荘(旧備後クラブ)は、その昔の大正初期に大阪鉄工所因島三庄分工場が賑わった頃に会社の賓客や役員の供応接待を主目的として建てられた高級割烹料亭で、木造瓦葺二階建(約220坪で部屋数一階大広間3部屋を含む8部屋・二階12部屋)で、とくに石造り組立てアーチ式の門構えは、備後全域で現存する唯一の構築物である。
 因みに旧備後クラブが全盛時代の神田地区には、割烹料亭2・芸妓置屋7・見番1・日本髪結店1・写真店2・料理店1・すし店1・洋服仕立て店1・ビリヤード・麻雀店1・仕出店1・靴店1・菓子店1・雑貨店2・理髪店1・時計店1・食料品店2・クリーニング店1・酒店2・玩具店1・種物屋1・食堂1・薬屋1・喫茶店1・米屋と郵便局・森神社があり、因島一の賑わいであった(後略)。

 大正6年生まれの木谷千代子さんは、「まごころ通信」(まごころサービス三庄)第99号で、当時の思い出を語っている。

―今の備後クラブを中心に、上の方は上流社会(当時流に言えば)で、工場長宅や課長宅など、赤壁の洋館建てにポプラの木、庭にはブランコ・スベリ台・テニスコート、部屋にはピアノ、台所はレンガづくりで、女中さんが…。雲の上の人がお住まいでした。オルゴールやドロップ(外国の飴と母に教わる)、6年生の頃のチョコレートのエピソードなどは、幼い頃の思い出の一つです。
 備後クラブの下は花街で、夜でも昼間のように明るく、賑わっていました。正面に大阪鉄工所の門があり、両脇に沢山の商店が並んでいました。今時ではめずらしい「置き屋」・三味線の先生・日本髪の結や・玉突き・下駄屋・銭湯・床屋・写真屋など…があり、コッポリ下駄を履いた舞子さんや粋な芸者さんが、大勢行き通っておりました。

 親族の話によれば私の曾祖父の松本徳市は、工場の正門近くで旅館を営んでいた。工員や船員が相手の商いだったのであろう。やがて工場が拡大してきたので新居を空襲でやられた場所に建てたという。
 こうした三庄町の神田地区の繁栄した歴史を知れば知るほど、造船所と居住地帯、つまり町まるごとが空襲に狙われたに違いないと実感した。
(青木忠)

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