空襲の子Ⅱ【26】十年間の調査報告 防空壕の今(6)

「ようけあるじゃろう」

 三庄町家老渡地区の防空壕を調査している際に、声をかけてくれた人がいた。
三庄町 日立造船因島工場は、土生町から三庄町家老渡(九区)にかけて展開している。町の境目は、ユニバーサル造船2号ドックと3号ドックの間を走っている。したがって工場の東門は三庄町になる。三庄は、家老渡から現在は八区と呼ばれる沖浜、塚ヶ浜。さらに神田(七区)、小用(六区)とつづく。


 その一帯は大戦時、戦場であった。家老渡は軍需工場があり、従業員住宅が密集し、会社付属の協和寮には大勢の徴用工と学徒動員生が寄宿した。塚ヶ浜には約180人を収容した英軍捕虜収容所があった。神田と小用にかけて軍需工場としての日立造船三庄工場が座り、因島工場と同時に激しい空襲を受けた。
 手元に、「尾道商業47・48期同期会 喜寿の会」が平成17年5月25日に発行した「同期の思いで」という冊子がある。その学年こそ学徒動員の人たちであった。世話人代表は次のような想いを披露している。

―この世に生をうけて70有余年、もう第一線を引いた人がほとんどだと思いますが、今までの人生が走馬灯の如く頭に残る今日このごろですが、その走馬灯がフーッと止まる時があるのです。
 それは昭和19年春過ぎ尾商時代、学徒動員で日立造船因島工場に引っ張り出され、協和寮で他の学校の連中と暮らした1年有余の思い出です。栗原先生(栗原ブー)の云う飢えつつ、餓えつつ、死なん程度の食事で1日中腹ペコ、そして蚤、虱と戦いながら、グラマンの空襲に何度も会い友人1人を亡くし、沢山の工員さんが死んだまさに戦場そのものでした。
 戦中・戦後を通じて今の日本の基礎を作ったのは我々の時代の者だといっても過言ではありません。同士諸君、長生きしましょう。でないと割の合わない話です。

 この冊子には、戦後まもなく同期の1人が撮影した、協和寮全景写真が掲載されている。部屋割表もあり、尾商生徒だけで101人いたことが分かる。
 学徒の一人は次のように説明している。

 昭和19年6月18日尾商3年生学徒動員令により日立造船因島工場へ出動する(何故か高学年は自宅通勤、向島工場へ)。体調不良のため同級生のうち何名かは動員を免除された。当時の工場は正規の社員に加え、徴用工、学徒、女子挺身隊、朝鮮徴用工、英軍捕虜など。因島工場への動員校は尾商、盈進、竹原商業、戸手実業、木江造船(以上協和寮)、尾中(生名寮)、土生女学校(自宅通勤)であった。
 福山市の誠之館は田熊町の占部造船に行ったが、その前に一時、因島工場にいたという。土生女学校の動員は住所により、土生工場、三庄工場、占部工場に分かれた。
 塚ヶ浜の海岸に面した日立造船の土地に俘虜収容所広島第五分所(因島英軍捕虜収容所)が1942年11月27日に設立され、終戦後の1945年9月まであった。パン製造の石田芳栄堂の真前が入口だったという。収容人数は185人までになった。捕虜の大半が因島工場、一部が三庄工場で強制労働に就いた。

 現在は、造船所の土地が払下げられ、すっかり住宅地に変貌している。その面影は、捕虜によるスケッチ画、占領軍が撮影したフィルム映像や写真に見ることができる。
 海に面しており、主要な建物は木造2階建てであった。
 終戦までに12人が死亡し、終戦直後に1人が亡くなった。3人の職員がBC級戦犯に問われ、所長が重労働2年、軍属に3年、通訳に6カ月の判決が下りた。
(青木忠)

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