空襲の子Ⅱ【25】十年間の調査報告 防空壕の今(5)

土生中学校の生徒がまとめた、「語り伝えよう因島の戦争体験」と題する手作りのパンフレットがある。すっかり薄茶色に変色し時代を感じさせる。私が見た、戦時下の土生町を調べた唯一のものだ。「1982年11月18日 土生中学校 1学年 展示係」と作成者が記されている。現在では40代前半の方々であろう。全体で22ページあり、目次の内容は次のようになっている。


「因島の空襲の様子」

「戦争中の生活」

  1. 着るもの
  2. 食べもの
  3. 燈火管制

「学校生活の様子」

「防空ごうの生活」

「戦争直後の生活」

「私の戦争体験」

「はじめ」には次のようにある。

―私たちは戦争中の因島の様子を知るためにアンケートをとったり、実際に調べたりしました。日立造船の空襲や、苦しい生活などがよくわかりました。アンケートに協力してくださった1年生の父母のみなさん、土生町のみなさんのおかげで、いろいろ知ることができました。本当にありがとうございました。

中学1年生の聞き取りに、保護者や地域の住民は積極的に答えている。今から30年前のことである。空襲の記憶も生々しかったことだろう。空襲の様子について興味ある証言を引用してみよう。

  • 多くの人たちが死んだときく、学校の授業中同級生の兄さんが機銃掃射で死んだとの知らせで帰っていった。肩から腹に弾丸が貫通し、死亡したとのことであった。
  • 朝、出勤中10時ごろ弓削から敵機3機が上空に来て三庄ドックにSB艇があった。その船から飛行機に向けて発砲したので、飛行機は旋回だけで引きあげた。10分後にグラマン機が襲来後に爆撃をうけ多くの人が死んだ。
  • 6月25日くらいにも空襲があった。

この中学生の聞き取り活動が最も威力を発揮したのは、防空壕の調査であろう。聞き取った壕の所在地を次々と土生町の地図に記入している。数えてみると37カ所あった。そして主だった地名を書き記している。

安郷トンネル(安郷)▽宮地鉄鉱所裏(宇和部)▽大山神社(一江ノ内)▽荒神山(荒神)▽安郷峠(安郷)▽赤松峠(赤松)▽1本松(赤松)▽保育所前(赤松)▽広銀社宅うら▽日立の城山(荒神)▽塩北ダム(塩北)▽電報電話局後ろ▽土生小プール上(宇和部)▽テニスコート下など。

この結果から推測すると土生町にあった防空壕は、日立造船因島工場内と合わせると百カ所に及んだであろう。

「防空ごうの様子」を聞き取っている。

  • 何か所も、ほっていて、それをほったのは、女や、子供の手で、スコップやくわを持って、ほっていた。
  • 爆風で、目がとび出したり、こまくが破けたりしないように、親指で耳をかたくおさえて、あとの指で、目をおさえていて、口を大きくあけていた。家の床下に防空ごうをほって入っていた。
  • 夜、ねようと思うと、空襲警報が鳴って、防空ごうへすぐ入った。
  • 空しゅう警報がなったら、防空頭巾をかぶり、貯金通帳と印かんを持って防空ごうへ入る。
  • 防空ごうのなかで一夜をすごしたこともある。
  • 玄関にも防空をほって敵機がきたら、みんなで入っていた。

(青木忠)

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