碁打ち探訪今昔四方山話【51】秀策の兄弟子本因坊秀和(9)名人碁所願う争碁

先生、意外の不出来
 文久元年のお城碁は本因坊と井上両家にとって争碁に劣らぬ遺恨試合が再現されます。このお城碁、井上因碩錦四郎の出来が素晴らしかったようです。前盤の布石から中盤にかけて黒先盤の錦四郎は好手を打ちつづけます。


 休憩時間に入って、本因坊秀和と親しい伊藤松和が心配して注意したが相手を甘くみていたようで「最後には、ひっくり返してみせる」と笑っていたようです。ところが終盤に入っても一手の誤りもなく打ち継ぎます。秀和が寄せの手順に苦心さんたんしたが及ばず一目差で錦四郎に逃げ切られてしまいました。実力の差があっても心のゆるみから勝敗が逆転するということはよくあることです。本因坊秀和、不覚の敗北は名人碁所の就位まで遠のくという取り返しのつかない一敗となりました。
 本因坊跡目だった秀策が口惜しがって安芸広島の因島の実家に「先生意外の不出来、さてさて残念この事に候。先生の業にて因碩などは片手打ちにも勝ち申すべき碁に候えども、活き物ゆえこのようなる儀も出来申し候」と手紙を書いているが、あとの祭りです。
 勝って金星をあげた十三世井上因碩錦四郎は後にこう述懐しています。「ただ夢中だった。後半はどう打ったかまったく覚えていない。これは多分、幻庵先生が私に乗り移って戦って下さったのでしょう」と伝えられています。武士の仇討ちのような怨念にも似ているようです。
お城碁火災で中止
 この敗北で名人碁所になれる最後のチャンスを失い秀和の運命は大きく変ります。
 翌文久2年(1862)のお城碁は江戸城火災のため中止となり、同3年は下打ち(オープン戦)に留まりました。そして元治元年(1864=文久4年2月改元)以降は下打ちも行われないまま明治維新を迎えます。
 傷心の秀和に追い打ちをかけるように跡目の秀策が文久2年8月、コレラにかかって急逝。秀策が本因坊家を継ぐころには争碁など口にするものはいないと言われるほどの技量抜群、人格も温厚誠実で将来の名人と目されていた一門の希望の星を失い秀和は悲嘆に暮れる日々が続きます。
 秀和は秀策亡き跡目に門人の秀甫をすえようとしたところ、またしても井上家の因碩銀四郎の反対にあい争碁となり因縁の本因坊家―井上家の第3幕となります。しかし、錦四郎は秀甫の3連勝に終り秀和の恨みは秀甫によって晴らされます。秀甫27歳。秀和44歳でした。
(庚午一生)

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