碁打ち探訪今昔四方山話【50】秀策の兄弟子本因坊秀和(8)名人碁所願う争碁

江戸大地震お城碁中止
 安政2年(1855)10月2日、江戸が大地震に見舞われ、この年のお城碁は中止されています。もっとも開港を迫る黒船の出没など日本の国内外の政治情勢もあわただしくお城碁どころではなくなっていました。


 同6年、十一世井上因碩が62歳で亡くなり、その年の12月、秀和は待望の名人碁所就位願いを寺社奉行に提出しました。因縁深い因碩幻庵の存命中は出願を遠慮していた秀和だが、その気遣いは無くなったと早合点した。本因坊秀和の技量は実力日本一であることは碁界で誰もが認めていた。年齢も40歳という油がのり切ったころだが、この請願に十三代井上因碩を継いだ松本錦四郎。「十一世因碩幻庵が逝って年も改まらないのに碁所出願とは人道に反する」と頭にカチンときた。せっかく本因坊丈和の長男、戸谷道和を井上家に養子縁組に出して和解していたが道和は事情があってはやく引退、当主は松本錦四郎に引き継がれていたから厄介になった。
 錦四郎は、武士の出身で天保の争碁で敗れた幻庵の遺恨をはらしたい一念に燃えていました。時の幕府老中久世(くぜ)大和守広周(ひろただ)は錦四郎の旧主であったことから秀和の碁所就位阻止を働きかけました。その願いは効を奏し、秀和の名人碁所就位許可は遅延を重ね、却下されてしまいます。そうなると秀和の逆襲がはじまり錦四郎との争碁願いを出したが「内外多忙、しばらく待つべし」ということで不許可になりました。
争碁の遺恨試合再現
 碁界の最高峰といっても、当時の本因坊家は、けっして裕福ではありませんでした。安政6年12月付の秀策が因島の父親宛に「本因坊も手元宜しからず」と、借金の申し込みをした手紙が残っています。幕府から受けていた50石15人扶持の家禄だけでは一門が食べていけなかった状況が推察できます。本所相生町にあった本因坊家には、丈和未亡人勢子、秀和夫妻、秀策夫妻、住み込みの門人十数名それに丈和や秀和の子供たちが同居していました。秀和が名人碁所に就位したかったのは苦しい台所の事情があったためでもあったようです。
 それから2年目の文久元年(1862)11月17日、秀和と因碩錦四郎がお城碁で顔を合わせることになります。両者の対局は安政5年に一局あり、その時は秀和が白番で6目勝っていました。今回は表向きは恒例のお城碁ですが、お互いに本因坊と井上両家を代表する対局であり争碁の内容を含んだ遺恨試合の再現になりました。
(庚午一生)

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