空襲の子Ⅱ【23】十年間の調査報告 防空壕の今(3)

 当時、因島市文化財保護委員長、同文化財協会長であった故中島忠由氏が1981年6月に著した「因島市百年史略年表」の1944年(昭和19)の次の記述を、何度も読み直してみる。


 「重井村の深浦・小田浦、大浜の添川などが軍用地となった。戦局の配色濃く、各地で防空壕を掘る。」
 ところがつい最近、当時、土生高等女学校生だった方にこの記述を見ていただくと軍用地のことをご存じで、この時より以前に勤労動員でその地域に草むしりに行ったとの答えが戻ってきた。
 昨年8月、防空壕調査で知り合った不動産会社の社長は、土地取引の業務で分かったことだが、と前置をして重井地区について次のように語った。
 「当時はあの辺りは国の土地で、タバコが一面栽培されていた。また海軍省や内務省の官舎があり、防空壕はその役人のためのものであった。」
 今年3月、長野県上田市のある会社の方から、重井町の防空壕調査結果についての問い合わせがあった。本紙ネット版で知ったという。その会社の先代の会長が当時、重井町の軍用地で働いていたと告げた。
 中庄町西浦―重井町―大浜の海岸側にどのような軍事施設があり、何を行っていたというのか。資料は出てこないが、私よりかなり上の世代には常識に近いようだ。
 私は調査活動10年目にしてようやくこの事実に直面した。実に情けないことだ。
 このギャップは何を意味するのだろうか。因島の戦時の実態は、調査する側の想像を大きく超えて広く、深いのではないだろうか。当時の戦時体験を忘れたくとも忘れることができずにいる人たちが、大勢いることは明白だ。
 防空壕調査は、この壁を突き破ることができるかも知れない。この調査は、地域全体が対象になり、壕のありかに始まりすべてのことを、その近くに住みつづけてきた人たちから聞き取るしか方法のない活動なのだ。
 新たに気合いを入れなおして昨年7月9日、重井地域にある国がつくらせた防空壕6カ所の調査を開始した。そのうち4カ所が商店街にある小山に掘られていたことが判明した。これらはいずれも、住民が避難するためにつくられたものだ。2カ所がまさ土採取のために崩され、消滅していた。残りの2カ所は入口が封鎖されていた。
 神社の参道沿いの壕の入口には、住民の手で、石や土などが丁寧に盛られていた。馬蹄形のものであったという。そこは戦後、子供たちの遊び場だったようだ。もう1カ所は、巨大なコンクリートブロックが入口に積まれていた。これも馬蹄形であったようだ。
 話によれば防空壕は、爆撃を受けた際に爆風の圧力に対応するために、入口が2つあるU字形の馬蹄型のものが有効であるそうだ。商店街から少し離れた北浜地区にも同様のものがあった。その真前に住んでいる人の案内ですぐに分かった。これで6カ所のうち5カ所が特定できた。
 ここまでは順調であったが、深浦新開にあるとされる最後の1カ所の発見には苦労した。地図に記されているとはいえ、実際にはなかなか見つからないものだと痛感した。3回目の調査でようやく確認できた。
 そのヒントになったのは、近くの畑で農作業をしていた方の次の話であった。「小屋の近くにふたつの防空壕があった。海側のものは大きかったが、みんなで土で埋めた」。すぐにそれらしき小屋が見つかり、その裏に壕があった。
 ここは、他の5カ所と遠く離れ、あたり一面が畑で、住居はほとんど見当たらない。これがそうかと思った。住民の避難のためのものではなく、軍関係者か、軍需物資の保管のために掘られたものではないか。そのように見るのが自然である。
(青木忠)

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