空襲の子【22】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 椋浦小学校廃校のこと

椋浦小学校のある日のひとこま。小学校3・4年生たち

椋浦小学校のある日のひとこま。小学校3・4年生たち

わたしは、御調郡三庄町で生まれたが、因島市立椋浦小学校の卒業生である。昭和21年に父の松本隆雄が椋浦小学校の校長に着任するとともにわが家族は椋浦町に引っ越したが、2歳にも満たないわたしだけは三庄町に住む祖父母に育てられた。

母の清子は空襲の打撃で身体が弱り結核を患った。感染を恐れたがゆえの別居だった。母は昭和25年7月23日、盲腸炎をこじらせて亡くなった。しかし結核菌はわたしではなく、母と同居した2歳上の兄を襲った。生死の境をさまよい足に重い障害が残った。空襲の傷跡はこうして戦後も消えることはなかった。

わたしは8年前に「遺書」と記された母・清子の日記を整理した。その際、わたしのことを詠った短歌に目がとまった。いずれも昭和23年のものである。

祖父達と 育つ忠に 会ひたくも ジット忍びぬ 病あるみは

健やに 育つと聞きて 思ひなし 病ひある身は 世話も出来ねば

學校の 子らのざわめく 聲きこゆ 馳せる思いは ふる里の吾子に

母とわたしの椋浦町での同居は1年位だっただろうか、かすかな記憶のなかで初めて自覚した心の交わりだった。わたしたち家族が住んでいた校長住宅の建物はもうない。

椋浦小学校と椋浦保育所は平成2年、廃校・廃所になった。わたしの通学した椋浦小学校は僻地教育と複式教育に意欲的に取り組み、大きな実績を残した。全校が50人でわたしの学年は10人だった。住民は学校と保育所を大切に育て支えぬいた。

今も現存する校舎はほとんど住民の自力で落成させた。昭和15年11月3日のことである。公費は望めず、県の設計費以外は全額、椋浦の自費で、寄付で建設費1万6500円をまかなった。世話人は縁故を求めて上阪などして募金した。宮地汽船の宮地民之助は3000円も寄せた。

明治、大正、昭和と各学年数人前後、全校児童は35人前後を維持しつづけた。一時疎開児で児童は増加したが、昭和38年頃から30人をきり、以後減少をつづけた。昭和50年頃から児童数1人の学年や、入学児童のない年度を迎えるようになり、62年には全校で10人を切った。

昭和30年代後半、広島県下でも、県北山間部、県南島嶼部などで小規模校の統合が推し進められた。昭和42年因島市でも、中庄・外浦・鏡浦の3小学校が統合し、因北小学校が新設された。となり町の鏡浦町の児童はスクールバスで通学するようになった。

昭和30代初期、椋浦町民は市教委から三庄小学校への統合を打診されたことがあったという。しかし町民は町をあげて小学校存続を選択した。様々な方法で市教委、市、議会ともねばり強く交渉をつづけて学校を存続させた。全校児童が1人になった平成2年廃校を迎え、児童たちは三庄小学校に通学をはじめた。

筆者も住む椋浦町の住民にとって三庄小学校閉校問題は2度目の廃校問題である。旧校舎は別施設として活用されてはいるが、訪れる人は少ない。

※ 椋浦小学校についての記述は、「椋浦学校史」による。

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