碁打ち探訪今昔四方山話【47】秀策の兄弟子本因坊秀和(5)名人碁所願う争碁

大一番開始の内幕
 万全の布石を打ったはずだった本因坊丈和だが、丈和が引退して名人碁所が空席になると、井上幻庵因碩が待ってましたとばかり寺社奉行に碁所就位を願い出ました。


 奉行は天保11年6月、因碩の申し出を受けて十三世本因坊丈策との争碁(あらそいご)を申し渡しました。因碩が争碁に勝ったら碁所就位を認めようというわけです。
 ところが、本因坊丈策は病臥中であったため跡目の秀和が代わって対局することを願い出て、これも寺社奉行に許された。争碁の第一局は同年11月29日、神田小川町の寺社奉行稲葉丹後守の自宅で打たれることが決まりました。秀和先番。時に因碩八段、42歳。秀和七段、21歳という若さでした。
 幻庵因碩と秀和の対局は初めてではなかった。前年の天保10年に両者は三番の手合せをしていました。初対局は秀和先番で因碩の六目勝ち。次いで二局目は秀和1目勝ち。秀和1勝1敗のあと第三局は持碁(じご=引き分け)で1勝1敗1引き分けという互角の前哨戦を経て両雄は本因坊家―井上家の面子をかけた大一番となった。
 因碩は、できれば争碁を回避したかったはずである。勝ったところで相手が本因坊の総帥丈策でなく、代理の秀和では名誉にならない。負ければ万事休すである。そこで因碩は”先相先”を拒否し、八段と七段の対戦であるとして秀和の”定先”を主張した。四番とも因碩が白石を持とうとした。これで2勝2敗の打ち分けになれば、因碩が名人碁所に任命されるものと筋書きをかいた。
 ところで、この争碁は20番碁として始められたという定説になっていましたが近年、井上家から出てきた古記録によれば4番碁であったことが判明しました。
 争碁は11年29日巳(み)の刻(午前10時30分)寺社奉行役宅で開始された。手合せ時間は毎日、申(さる)の上刻(午後5時30分)までの7時間と定められ、稲葉丹後の守以下の役員のほか、安井算知、太田雄蔵ら当時の一流棋士たちが観戦した。秀和と因碩はともに死力をつくし、初日は31手までで打掛けとなった。
 7時間で31手。2人に分けると15手打っただけでへとへとに疲れていたと語りつがれている。囲碁は体力・知力・精神力の極限までせめぎ合う。”格闘技”だという人もいる。打掛け後、両者は帰宅したものか、奉行役宅に泊り込んだのか明らかでない。
 翌30日は45手まで。12月1日は71手まで。2日には91手まで進んで中盤戦に入った。両者互いに最善の手を打ち、いずれが優勢ともいえない展開で文字通りの死闘のあとが伺えます。
(庚午一生)

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