空襲の子Ⅱ【20】十年間の調査報告 三庄町の真実(12)

 今から10年前の2002年7月下旬、生まれ故郷の現存する防空壕の前にたたずんでいた。中国新聞の取材を受けるためである。すぐ近くには、実家である松本家の墓所があり、父母をはじめ先祖が眠っている。私は、空襲の調査を開始することを宣言した。


 当時私は追いつめられていた。Uターンして10年以上も過ぎたというのに、秘かに思い描いていた空襲の調査に一歩も踏み出せないでいた。あれほど「反戦」などと叫んでいた者が地元に住み始めるや、わが身に襲いかかった戦災に手も足も出せないというのか。この窮地を救ったのは亡き父親だったような気がする。
 何も知らない私に、ふるさとの戦争の基本的な事実を教えてくれたのは父親に縁のある人たちであった。当時の町並みや空襲の体験談を親身になって説明してくれた。
 ある日、父と三庄小学校の教員仲間だった方から電話があったことには驚かされた2006年6月26日の読売新聞は次の記事を掲載した。
―当時、地元の小学校で教員をしていた同市因島中庄町の松浦和助さん(88)から、三庄町への空襲で投下された爆弾の破片(長さ18センチ、幅8センチ)と機銃の薬きょう(長さ15センチ)が提供された。
 確か広島師範同窓会の因島支部総会会場にお訪ねし、お話を伺った。爆弾の破片は、戦後になって私の実家の山に焚き木を集めにいって見つけたそうだ。薬きょうは、当時の小学生が拾って学校に持ってきたものだという。
 地元に住みつづけている人たちのかなりの人が、空襲について語り継いでおり、ゼロから調査活動を始めた私を暖かく包んでくれた構図になったようだ。Uターンするまで生まれ故郷で生活したのは5歳までと中高生時代の11年間だが、ほとんど何も知らないと同様の状態であった。
 空襲調査のテーマに実態の解明だけではなく、零歳時における空襲体験が自らの人生にどのような影響をもたらしたかという項目も設定した。
 それは、次の2点において重要であった。ひとつは、空襲体験が私の人間としての成長を歪めたかという点である。人生上の各ポイントで自己分析してみたが、どこにもマイナス作用は見いだせなかった。むしろその体験故に成長したと結論づけた。本当に今日まで死なないで、生きつづけてきてよかった。決して空襲に負けなかったのだ、と心底から思った。
 もうひとつの点は、私が、戦後日本の反戦運動を代表する六〇年安保闘争と七〇安保・沖縄闘争の中心部にいたということとの関係である。そのことと空襲体験が密接につながっていると考えている。
 1960年の闘いを担った学生たちは、本土空襲下で逃げ惑った世代である。戦争の再来の動きに強く反発し、1970年の闘いを担った学生たちのリーダーは、戦時下に生まれた世代である。このようにあの大戦は、膨大な数の反戦勢力を生み出したのである。
 思い返して見るに自我に目覚めたころ、戦禍の傷跡はいまだ消えていなかった気がする。大戦の最中、学徒動員で死んでいった学生たちのことが決して遠い昔のこととは思えなかった。朝鮮戦争やベトナム戦争があの大戦と重なって見えたのも無理のないことだった。
 こうした独特の感受性の根源は、戦場には行かなかったものの、空襲などの戦争体験だったのでないだろうか。また、そうした一環として瀬戸内の小さな島での私の苦難もあるのだろう。
 10年間の調査活動は同時に、自らの人生を検証するものになった。それが因島空襲のわが調査活動の大きな特徴かもしれないと思った。
(青木忠)

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