空襲の子Ⅱ【19】十年間の調査報告 三庄町の真実(11)

 「お母さんやお婆さんが身を挺して守ってくれたから、今生きていることを忘れるな」。これが実質的な父の遺言になった。高校3年時に松本家から青木家に養子に入った私が、実家の行く末に苛立ち、「松本家のことは関係ないということにするから」と語ったことへの激しい反応であった。その勢いに、私は思わず絶句した。


 空襲で家屋が全壊し、妻や義母、そして3男の私の3人が死にかけたこと、そして今なお私が生きているということ。父にとってそれらは大変なことだったのだ。その重みを背負いながら戦後を生きてきたのだろう。
 1945年7月28日午前11時45分頃。推測を含めその時の松本家を再現してみよう。船の機関長をしていた祖父は55歳。航海に出ていて不在だったのではないか。父は本人が語っているように勤務先の小学校にいた。旧制尾道中学校生の長男13歳は、尾道にいたようだ。
 長女9歳、次女6歳、2男3歳は連れだって近くの防空壕に避難していたのではないか。空襲警報が発令されたにもかかわらず家屋に残ったのは、母35歳と祖母55歳、そして生後11カ月の私だった。
 防空壕に行くか行かないか、次のような判断があった。どの赤ん坊も同様であろうが私は、壕を嫌がり、泣き叫んだという。やむをえず家屋のなかで私を守ろうとしたのだろう。親族の話によれば、布団部屋で布団に包まれていたのが、生死の分岐点になったという。
 現場にいなかった父は度胆を抜かれたはずだ。小学校から駆け付けた時には、「池のような穴が出来て家は跡かたもなく飛び散っておる」有様であった。
 中学生になったころであろうか、「空襲にやられて松本家は傾いた」と姉から教えられた。それまではかなり裕福だったそうだ。母も「遺書」のなかで、自らの恵まれた少女時代を振り返り、娘たちの生活の貧しさを嘆いている。
 祖父は、大戦末期に対日戦に参戦したソ連への非難と戦後農地改革への不満を繰り返し口にした。欧米人のことを「毛唐(けとう)」、ロシア人のことを「露助(ロスケ)」と口汚く罵った。農作業をしている最中私に、「農地改革は、正直者が馬鹿をみた」、と吐き捨てるように語った。
 父はUターンした私に、戦後の食糧難のころ、山を越して大浜町に食糧の買い出しに行った、苦労話を披露した。また私について心配なことがひとつあると言った。「赤ん坊のときろくなものを食わせられなかった。その影響がそのうち出るんじゃないか」。
 空襲で全壊した自宅を建て直す力は最早なかったが、父を旗頭に戦後の道を歩み始めた。父は幸いにも昭和21年、隣町の椋浦小学校に校長として赴任した。そこでの僻地(へきち)教育と保育所設立に生きがいをみいだしたようだ。その創立百周年記念誌(昭和47年)に次のように記している。
―終戦の翌年就任=部落の方々に暖かく迎えられる。美しい校舎と純真な児童が魅力。10年間在任を決意する。
 三浦村立から23年、三庄町立。28年、因島市立へ変遷。三庄町5年間に保育所等主な施設設備が整えられた。
 5人の先生と椋浦教育の道を求めて=向井、吉本、村上先生と戦後の回復と複式教育の基盤作りに7か年。池田、松井先生とへき地教育の充実推進に3か年間。
 たくましい児童の成長をこいねがう=先輩の後に続くこどもの育成につとめる。児童は教室で運動場に山に海に自分の能力開発に、よくがんばり努力を続けた。(後略)
 私も父のもとで、保育所と小学校時代を過ごした。人格形成や発想の確立などの点において、少なからず影響を受けているに違いない。
(青木忠)

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