空襲の子Ⅱ【18】十年間の調査報告 三庄町の真実(10)

 実父は生前、三庄小学校の教師時代の話を私にしたことがなかった。例外がひとつある。亡くなる数年前のことであるが、ある日突然、同居していた私に「三庄小学校は相撲が盛んだった」と語りかけ、その当時使っていた行司の軍杯を見せたことがあった。


 戦時と重なった小学校への勤務は、本人が「終戦前の状態は異常なものでした」と述べているように、辛い日々の連続だったに違いない。
 数年前、三庄町在住の方から話しかけられた。「私の叔父はあなたのお父さんの教え子で、満蒙開拓少年義勇軍で死にました。これは国の政策なのでお父さんの責任というわけではありませんが、あなたが空襲の調査をしているというので、当時の話を聞かせてあげたい」。とてもありがたかった。父のことなら何でも知りたかったからだ。
 「広島県戰災史」は「義勇軍」について相当なページ数をさいている。

―日中戦争の勃発により壮年層を満州開拓民として送出することが困難となってくると、それを補充するために、昭和12年11月30日、第一次近衛内閣は、満蒙開拓青少年義勇軍制度を実施することを決定した。この制度の目的は「日満両国の特殊関係を強化し同昌共栄の理想を実現して東洋平和の確保に貢献するために、概ね十六歳ないし十九歳までの青年を多数満州国に送出し、大量移民国策の遂行を確実容易ならしめんとす」ることにあった〔「満州青年移民実施要綱」(増補『満州開拓史』)。

 つづいて同誌は、満蒙開拓青少年義勇軍応募動機を『満州開拓年鑑』(昭和19年度版)に基づいて一覧表にし、説明を加えている。
―応募年齢の低下によって、志望決定にあたり、学校教師の影響力が大きくなってくる。表9によると、昭和十五年内原訓練所入所生の志望動機は、教師指導47.4%であるのにたいし、16年では77.5%に大きく増加している。教師を中心とする指導勧奨が大きな比重を占めていることがわかる。
 私は今年2月、意を決して異国の地で亡くなった父の教え子の遺影に対面し、親族の方に色々とお話を伺ってきた。その時にあることに気付いた。Uターンした私に対して父は、その方と同学年の教え子たちの近況についてだけは饒舌であった。やはり、特別の学級だったのだ。
 ある会社の社長は、「今の自分があるんは、あんたのお父さんのお陰だ。進学のときは自宅によんでくれて、特訓してくれた」と話した。父はいまだにつづいている同窓会のことを自慢気に語り、出席の際は実に上機嫌だった。晩年の生きがいになった八朔など柑橘類の発送の大半は、おそらく全国に散らばった教え子宛のものだったのではないだろうか。
 戦前、戦中、戦後と教育畑一筋の男だった。そして死ぬまで、「先生、先生」と呼ばれ、教師然としていた。推測になるが、母親の強い反対にもかかわらず満蒙開拓青少年義勇軍に志願し、戦死した教え子のことを生涯忘れることができなかったのだろう。
 しかし、私には一切語ろうとしなかった。私の学生時代の無神経な「戦争中に何をしていたのか」という詰問を、「お前と話をしてもしょうがない」と一蹴した。だから、地元誌「ふるさと三庄」に手記ともいうべき文章を掲載したことが、意外であった。もっとも同窓会の席上ではいつも話題になっていたのかも知れないのだが。
 父と満蒙開拓青少年義勇軍の関わりを話してくれた方に深く感謝している。父に代わって教えて下さったのだろうと思った。
(青木忠)

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