碁打ち探訪今昔四方山話【43】秀策の兄弟子本因坊秀和(1)跡目とその跡目が継承安泰

天才児秀和のエピソード
 日本棋院創立80年を記念して建設された囲碁殿堂記念館入りした本因坊秀策生家の代理として記念式典に出席しての帰途、静岡県三島駅で下車。友人の運転で伊豆半島の土肥町小下田に向った。幕末の名棋士本因坊秀和の生誕の地です。幼名を土屋俊平といい、文政3年(1820)生まれというから190余年前である。平成2年5月には秀和生誕170年を記念して顕彰碑=写真左=が最福寺境内に建立されたばかりでした。


 さっそく、土肥町教育委員会を訪ね「本因坊秀和の生涯」(永岡治著)の資料をいただくなど取材協力でお世話になりました。それによると、秀和は9歳のとき第十二世本因坊丈和のもとに入門、12歳で初段、名を秀和と改めています。20歳で七段に進み本因坊一門のなかでは頭一つ抜き出た実力者として認められていました。このころ丈和引退後空席になっていた「名人碁所(碁家元締)」の野望を抱いていた井上家の因碩幻庵との争碁に本因坊家を代表して秀和が対決します。これに勝って幻庵の名人就位の野望を阻んだ争碁は囲碁史に残る名勝負といわれています。
 弘化4年(1847)28歳のとき、師匠の丈和、丈策とともに亡くなり本因坊第十四世となり、跡目に秀策が幕府に届け出ています。さらに31歳で八段(準名人)に進みました。その実力は自他ともに日本一と認められ、囲碁界の最高位である名人(九段)就位も近いと思われていました。ところが、あきらめきれない井上家一門の謀りごとに阻まれます。
 その後、時代は幕末の激動期を迎え秀和は名人になることなく明治6年(1873)54歳で失意のうちに生涯を終ったとされています。しかし秀和の門下からは、碁聖とうたわれた広島県安芸国因島の桒原秀策、明治の囲碁界をリードした村瀬秀甫、それに実子の第十七世本因坊秀栄(名人)ら囲碁界を担う多くの人材が育ちました。秀和は近代囲碁の創始者とも評価されその棋譜は古典として今も光を放っており、秀策にとって兄弟子の勝負師の背中を追ってみることにします。
(庚午一生)

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