空襲の子Ⅱ【15】十年間の調査報告 三庄町の真実(7)

 空襲調査に本格的に取り組み始めた2002年の夏、中学生のころからよく知っていた、三庄町の魚屋のおばちゃんから次のような話を聞いた。「あの日は暑かった。工場のすぐそばの防空壕のなかに寝かされている三人の兵隊の死体を見た」。


 しかし今日に至っても、この事実の裏づけはとれていない。入渠中の日本軍艦船と米艦載機グラマンが交戦したという資料は見つかったが、軍人戦死の具体的事実は、浮上してこない。それに比べて住民の犠牲については、語りつがれてきた。
 実父の松本隆雄は、「この時十数人の死者があったことを思い出します」(昭和59年6月「ふるさと三庄」)と記憶を記している。また空襲調査を先駆けて実施していた西島和夫さんは、「三庄町で亡くなられた方は17人だったいうことを聞いております」と伝聞を語っている。
 地元出身の犠牲者は氏名も明確で、寺院で弔われている。しかし、外部から疎開してきた家族の犠牲者は、氏名や人数が確定していない。とりわけ、「かきの屋」の場合は悲惨である。当時、この三階建の木造の建物に三家族が住んでおり、二家族から死者がでた。
 米軍が迫る沖縄から疎開をしてきたと思われる「ナカソネ」家は、外出中の祖母を除き全員が死亡した。その人数について、6人、7人、11人、と証言が分かれている。なぜその家族が防空壕に避難しなかったのか、家族構成、どこで荼毘にふされたのかなど、不明である。
 遠く離れた疎開先に馴染めず、防空壕に入りそびれたのかもしれない。きっと子供たちが多かったに違いない。地元の寺院で弔われた事実は残っていない。「おばあさんだけ生き残り、写真を見て狂気のように町を泣きながら歩いていた」という身につまされる目撃談がある。
 居住地区への米軍の無差別爆撃は、赤ん坊や少女に犠牲を強いた。二組の姉妹が爆弾の直撃で亡くなった現場に案内された。逃げる途中で斃れた姉妹の遺族に話を伺った。空襲警報が鳴って防空壕に急いだことが裏目となった。母は、「慌てて行かせるんじゃなかった。そうしなければ二人を殺さなくてすんだ」とずっと悔やみつづけたという。
 爆弾によるものではないが爆撃の犠牲者がでた。爆弾の投下は敷石や石垣の石を空高く巻き上げ、それらが落下し、運悪く婦人二人が死んだ。
 生後11カ月の私をも襲った空襲はかくのごとく残酷だった。三庄町から始まった調査活動は、好むと好まざるとにかかわらず、犠牲者一人ひとりの死と直面せざるを得なかった。生き残ったご遺族の無念さに胸をうたれた。何よりもこれは、私が生まれ育った町で生起した歴史の現実であり、目を背けてはいけないと思った。
 2006年の空襲記念日を前にした7月初旬、空襲で全壊した実家跡地でテレビのインタビューを受けた。大粒の雨が降るなか想いを聞かれた私は、犠牲になった幼き姉妹のことを脳裡に浮かべ、「憎悪がこみ上げるのを抑えられない。しばらくはその心情に身を任せたい」と語った。初めて「憎悪」という言葉が口をついて出た。
 死んだ赤子は生きていれば、きっと私と同級生だろうと思った。百歩譲っても彼女が死なねばならない理由など見つかりはしなかった。
 空襲調査へと私を突き動かしている原動力はこの憎悪ともいうべき情念かも知れない。取材を受けるたびに投げかけられる、「平和のために空襲調査をしているのですね」という質問に嫌悪感すら覚えるようになった。「平和のために」というきれいごとなどでは済まされない。
 何としてでも調べ上げ、歴史の真実を浮かびあがらせたいのだ。正義なき戦争によって失われた無垢の精神の慰霊をつづけたいのだ。
(青木忠)

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