空襲の子Ⅱ【12】十年間の調査報告 三庄町の真実(4)

 1945年(昭和20)7月28日、三庄町はどのように空襲に見舞われたのか、可能なかぎり再現したい。
 アメリカ軍は、土生町から三庄町にかけて展開する日立造船因島工場と三庄分工場を、ひとつの工場として攻撃を加えた。「第2次世界大戦におけるアメリカ海軍の公式年表」の「1945年7月28日(月)―太平洋」では、「因島ドックヤード(因島造船所)」の呼称を使用している。土生町と三庄町への空襲は一体だったと見るべきだろう。


 空襲当日の土生警防團の日誌が残っている。「空発」とあるのは「空襲警報発令」、「空解」とあるのは、その解除。「警発」とあるのは「警戒警報発令」、「警解」とあるのはその解除。「航空機の来襲のおそれある場合」が警戒警報で、よりいっそう切迫した「航空機の来襲の危険ある場合」が空襲警報である。
20年7月28(月)晴れ
午前〇時十分 空発 午前〇時四十分 空解
午前〇時五十分 警解 午前五時五十分 警発
午前六時 空発 午前九時 空解
午前九時五十分 空発 午前十一時十分 空解
午前十一時三十分 空発 午後一時十五分 空解
午後一時二十分 警解 午後二時五十分 警発
午後三時〇分 警解 午後三時四十分 警発
午後三時四十五分 空発 午後四時四十五分 空解
午後四時五十分 警解 午後八時五十分 警発
午後十時三十分 警解
本日午前十一時四十五分より約七分間に
亘り因島工場爆撃を受け相当
損害あり
出動人員    一六〇名
 空襲当日は一日中、空襲警報、警戒警報の発令、解除の繰り返しであった。前に記した、三次市の元徴用工の方が語る「午前中約4時間防空壕に避難していた」という状況であった。防空壕から出ようにも出られなかったのではないか。そうしたなかで午前一一時四五分から約七分間、土生と三庄に爆撃が敢行された。
 その空襲を行なったグラマン戦闘機を目撃し、その記憶を文章化して私に送ってくれた方がいる。宮崎県にお住まいの檀上昌也さんである。当時、三庄「国民学校」五年生だった。しばらくの間、引用したい。
―グラマンが、超低空を掠めて飛んだ。あれは夏休みの日ではなかったろうか。日立のドックは、浅間山と弓削島の高い山が向かい合う狭い海峡に挟まれているので爆撃は到底無理だと、工場に行く人達は多寡をくくったことを云っていたが、遂にやられる日がやって来た。
 警戒警報は出されていたが、空襲警報のサイレンが鳴り出すよりも先に、凄まじい爆音を轟かせながら、いきなりグラマンが姿を現したのはまだ日の高い昼過ぎのことだったように思う。
 やって来た飛行機はそれ程多くはなかったような気がするが、ドックと思われる方角へ爆弾を投下したようで、その後は何回も上空を旋回しながら、地面を這うような低空飛行で機銃掃射を繰り返していた。
 我が家は、観音山を背に負い、東は三庄湾の地蔵鼻から百貫島の浮かぶ燧灘を左手に見て、通りでは善徳寺に並んだ一番の高みにあるので、低空を飛ぶ飛行機が眼下に見えたのである。
 偶々その日は、何かの用で隣の隠居所に行っていたのだったが、出し抜けの空襲だったので、そのまま、涼み台を前にしたガラス窓から敵の飛行機が飛んでいるのを見下ろす格好になったのだった。
(引用つづく)

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