空襲の子【21】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 三庄小閉校問題に寄せて

 わたしの旧姓は松本で、父隆雄と母清子の三男として昭和19年10月11日、御調郡三庄町神田に生まれた。現在の青木姓は高校3年の時に、父の後妻として青木行が入籍するかわりに継いだものである。現在、両家を直接継ぐ者で因島在住はわたしのみである。


 父は広島初等師範を卒業し向島町で教職に就いた。わたしが生れたころ、つまり太平洋戦争時、三庄小学校の教員であった。戦後はとなりの椋浦小に校長として赴任した。わたしが同小を卒業する昭和32年4月、田熊小学校校長に転任、教職最後の2年間をつとめ、因島市教育委員会で課長職を拝命した。そのころわたしは、両親の期待を背に広島大学教育学部小学校教育課程に進み、因島市での教職を志した。
 時代は変わり、尾道市教委によって土生小、三庄小、田熊小は閉校に追い込まれている。これも宿命か、その渦中にわたしもいる。三庄小の創立は明治8年(1875年)8月1日である。今年で132周年を迎える。
 土生町とともに造船城下町であった三庄町は時代とともに生き、それに翻弄されつづけてきた。第一次、第二次世界大戦をはじめとする戦争、戦後高度成長などで栄えるとともに、2回の空襲で大きな被災をこうむった。そしてその中心で育まれてきた小学校も無縁ではなかった。明治16年の生徒数は117人。最盛期が昭和34年の1310人、現在が165人。

75年前の三庄小学校(岡本馨氏蔵)
 三庄老青会が昭和59年に発行した『ふるさと三庄』に松本隆雄は太平洋戦時下の三庄小教育ついて記している。戦時中の学校行事は、出征兵士の見送りなど戦意を高める行事、全校訓練時間の特設など戦時訓練、満蒙開拓義勇軍送り出しなどの戦力増強への協力、少年兵の募集、学徒動員、自給製塩所作り、郵便物の配達。
 学徒動員は小学生も例外でなく、高等科2年(現在の中学2年)は日立造船三庄工場の各職場に配置された。松本隆雄は次のように語っている。

 ―昭和11年頃から昭和21年まで三庄小学校に勤めていました。今思い起こしてみますと終戦前の状態は異常なものでした。教師は次々応召されるので元からいた人は六名位で、あと十名位はみなその代員だったのです。児童が登校したら先ず朝会で団体訓練から始まり、低学年は勉強ですが高学年は塩田作業に交代でいきます。この間出征兵士への慰問作文、慰問袋、避難訓練等、状況に合わせて色々な行事が行われました。
 私は高学年を担任しておりましたので学徒動員で日立造船三庄工場に出勤しました。日立造船は海軍の指定工場になっていたので駆逐艦とか舟艇等が接岸しておりました。私達の外に土生女学校の生徒、英軍捕虜も一緒に働いておりました。作業は造船の手伝いで各職場に分かれて作業の手伝いをするのです。工場の大人達は「生徒さんがくると励みになって仕事がはかどる」と言って喜んでもらいました。
 私達が工場にいた時アメリカ艦載機の襲撃をうけた事がありました。この時は全くあわててどこへ逃げたらよいのか、ただうろうろするばかりでした。いざ本番となるとあわてるので避難訓練はさいさいやる必要があると思いました。

(続く)

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