空襲の子Ⅱ【10】十年間の調査報告 三庄町の真実(2)

私は昨年師走、一枚の写真をめぐっててんてこ舞いだった。日立造船因島工場への空襲のものと思い込み、公表までしたにもかかわらず、それが三庄工場への攻撃の写真であることが判明したからだ。そのことを毎日新聞(2011年12年8日)は次のように報道した。

―米軍が撮影したとみられる、毎日新聞社発行の「別冊一億人の昭和史 銃後の戦史」(1980年8月発行、絶版)の写真が、別の日立造船旧三庄分工場(因島三庄町)に対する空襲であることを、幼少期、戦火を経験した地元の男性2人が突き止めた。(中略)

防空壕調査で現地の地形がしみこんだ中村さんが「三庄分工場ではないか」と指摘。戦前・戦中に撮影された他の航空写真と照らし合わせたところ、現在は更地などになったドックと、逆V字型に建つクレーンの位置関係が一致▽工場棟の配置が1945年3月に米軍が作成した地図などと一致する―などから、三庄分工場であることが判明した。

この写真の存在を知ったのは2006年7月のことである。尾道市向島町在住の花咲清康さんから、3月19日の日立造船因島工場への空襲のテレビ映像などとともに写真のコピーが送られてきたのだ。花咲さんは旧制尾道中生として因島工場に学徒動員され、3月の空襲を目撃している。その後、因島空襲の資料収集をつづけていた。

「別冊一億人の昭和史 銃後の戦史」の「空襲―関西・四国方面」のところに、神戸、明石、姫路、高松、徳島の空襲とともに因島の写真が掲載されている。それには次の説明がついている。

―米英艦隊から発進した航空機が20年7月29日(原文ママ) 九州北部から瀬戸内海 さらに駿河湾までの一帯に大空襲を敢行した 写真は因島の日立造船所が空襲を受けているところ

おそらくこの内容は、撮影した米軍の説明を参考にしたものであろう。攻撃を加えた米軍にとっては因島の日立造船所はひとつであり、土生町の「因島工場」と三庄町の「三庄分工場」の区別などどうでもよかったようだ。

うかつにも私は、なんの検証もなく因島工場の写真と思い込んでしまった。そして2008年5月に自主出版した「瀬戸内の太平洋戦争 因島空襲」に、「7月28日、米空軍の空襲を受ける日立造船因島工場(土生町)。規模の大きさがよく分かる」と記した。

その間違いに気付いた中村公巳さんは因島田熊町在住。船の歴史に詳しく、私にアドバイスを送りつづけてくれていた。最近は因島の防空壕調査をともに行なってきた。彼は自ら集めていた、大正末期から昭和10年代に撮影された三庄工場の絵はがきの写真と空襲の写真を比べて見ながら突き止めたという。

さらに彼は「空襲写真」のなかに、岸壁に繋がれている艦船とSB艇(上陸用舟艇)に似た船が写っていると指摘した。これは前回書いた、「三庄工場への機動輸送第二二中隊の入渠とSB艇修理整備作業に従事」という記録と一致する。中村さんの調査で、7月28日の空襲においてSB艇一隻が撃沈されたことが判明しているが、この出来事は三庄工場で発生したとの推測も成立し得る。

「空襲写真」には工場内部の建物、ドック、岸壁だけではなく、隣接する居住区域も写っている。三庄町神田地域を象徴する「備後クラブ」にいたる通りの入口部分が鮮明に見てとれる。

工場や居住区域から何本もの煙が大きく高く舞い上がっており、機銃掃射のあとであろうか、海面にいくつもの煙が見える。いかに空襲が激しかったか、一目瞭然であると言えよう。

(青木忠)

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