空襲の子Ⅱ【9】十年間の調査報告 三庄町の真実(1)

 時代は大きく飛んで2011年秋、私は生まれ故郷であり、空襲被災地である三庄町神田地区にいた。ここから始まった空襲調査活動がまもなく10年目を迎えようとしている時に、この町を襲った米軍による空襲の全体像を確定的に描こうと思った。


 そのことを思い立ったのは、その年の夏からつづけてきた防空壕の調査活動のヒントをつかもうと、地元の有志が作成した「神田町並みと三庄工場」という地図を見直した時のことだった。
 縦110センチ横80センチ大の模造紙に、墨筆と数色のサインペンを使い、空襲当時の町並みと日立造船三庄工場の内部配置が克明に書き込まれ、再現されている。ドックや岸壁に「軍艦」とある。工場に隣接する英軍捕虜収容所や、工場周辺に掘られた防空壕の位置と内部構造が丁寧に記されている。赤い大きな印で爆弾落下位置が、鉛筆で住民が死亡した場所が表示されている。さらに対空射撃用の機関砲二基が二つの小山に設置されていたという鉛筆メモが残されている。
 必要な情報のすべてがここに凝縮されているではないかと驚いてしまった。この地図を受け取った2005年以来、繰り返し見てきたはずなのに何故そのことに気付かなかったのか、悔やまれた。
 当時を体験した山内勝さんに地図どおりに案内してもらった。今でも残っている防空壕から防空壕へと説明を聞きながら歩いていった。その途中、山内さんが二つの小山を指差し、それらの上から機関砲による対空攻撃があったと語った。その時、ひとつの謎が解けたと思った。なぜ居住区に爆弾が落とされ、多くの人が犠牲になってしまったのか、という疑問である。
 ここでは軍需工場を守るために、町全体を陣地にし戦場にしたのではないか。襲ってきた米戦闘機に日本側は、三地点から反撃を試みた。一つは、後に詳述する入渠中の艦船からの対空攻撃である。あと二つは、住居区域側の小山の機関砲からのものである。それらに対して米軍は容赦のない爆弾投下と機銃掃射を遂行した。
 防衛省・防衛研究所に三庄工場における艦船による戦闘のメモが保存されている。次のようなものである。
機動輸送第二二中隊(暁第一六七六八部隊) 略歴
20・7・25 三庄着
20・7・28 三庄入渠中に於いて対空戦斗を実施す。
20・7・26
  8・12 SB艇の修理整備作業に従事す。
20・8・13 三庄出発。
          部隊長 中尉 岩城彪三
 調査を始めたころ、「届きもしない対空攻撃などしなければ米軍の空襲をやり過ごすことができたのに」との話をしばしば聞かされたが、その意味するものも初めて理解できた。しかし、米軍の空襲はあくまで作戦に基づくものであり、日本側の出方によって手心が加えられるほど甘いものとは思えない。
 ところでもう一つの疑問が解けない。現在にいたるも工場内の死者、負傷者などの被害状況、また軍人はどうなったのか、明らかになっていない。特に米戦闘機との対空戦闘を行なった部隊はどうなったのか、無関心ではおれない。中隊というからには百人はいたのだろうか。
 この日、小山からの対空攻撃に対して米戦闘機は市街地への爆弾投下でもって応酬し、多くの犠牲者を生み出した。艦船からの対空戦闘に同様の攻撃を加えたことは、容易に想像できる。それを見逃すほど三庄への空襲は安直なものではなかったはずだ。軍隊にかなりの犠牲者が出たと考えざるをえない。
(青木忠)

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