空襲の子Ⅱ【8】十年間の調査報告 時代の縮図、因島(6)

 幼少期の私には、空襲を受けた三庄町について重要な記憶の欠落がある。先日、三庄町で生まれ育った同世代の人物と会話していてそれを再確認した。


 保育所と小学校の七年間、私は生まれ故郷であり、空襲被災地でもある三庄町を離れ、隣町の椋浦町の子として育った。中学校と高校の六年間は実家にもどり、三庄町から通学した。こうしてどちらの子供でもあり、どちらの子供でもないという中途半端な意識が今なお残っている。
 いなかった時期に空襲被災地は大きな変貌をとげ、表向きは空襲の傷痕を見ることができなくなっていた。激しく攻撃された日立造船三庄工場はその後どのようになったのか。地元の中学校に入学するために実家にもどってきた時には、工場はなくなり、鉄筋の社宅群に変わっていた。「ふるさと三庄」(三庄老青会連合会)を引用しよう。
―(終戦後)全く仕事もなく、従業員も大幅に減少し、昭和26年(1951)4月、三庄工場は閉鎖し、従業員は土生工場に編入された。また昭和29年(1954)8月、ついに三庄工場の四号と五号の乾船渠が使用休止となり、その幕をとじた。
 その後三庄工場の建物等は撤去され、昭和31年(1956)12月までに、ドックも埋め立てられ、その埋め立て地に昭和32年(1957)、現在の日立造船の社宅が建てられたのである。
 閉鎖後の昭和28年秋、松山市沖での訓練中に沈没し、十年ぶりに浮揚した伊33号潜水艦の解体作業が行なわれた。また地元の少年たちは自由に出入りし、屑鉄拾いの小遣い稼ぎに夢中になった。週末に一人暮らしの祖父のもとに帰っていた私は、屑鉄拾いやドックでの魚釣りを覚えているが、潜水艦のことはまったく記憶にない。同世代の知り合いは潜水艦の甲板にのって遊んだという。
 空襲でやられた我が家はどうなっただろうか。父は空襲のことを「ふるさと三庄」で語っている。
―私はこの時学校におりましたので南の方をみておりました。三庄工場の方で爆弾が炸裂する地ひびきが数回しました。飛行機が去った後現地を見に行きましたら七区の私の家附近に池のような穴が出来て家は跡かたもなく飛び散っておるのです。この附近の家も破壊されて大混乱でした。この時十数人の死者があったことを思い出します。
 私はもともと生家を覚えていない。写真でも見たことがない。私の記憶に残る空襲で破壊され我が家の情景は、家族内で語られた、「造船所に落とされた爆弾の流れ弾が当ってしまった。空襲前はよかったが空襲後は駄目になった」という言葉上のものでしかなかった。
 中学生になり実家に住みなおしてみるとその跡地は、すっかり様相が変わっていた。豊かな野菜畑になっており、柑橘用の二階建ての倉庫も建っていた。一本の柿の木があり、秋には枝もたわわに実った。ここが中学校と高校を通じた家族写真の撮影現場にもなった。
 私は自らを襲った空襲のことを忘れたことはなかった。しかし誰かに質問をしたり、調べることなどはしなかった。意識の奥底に封じこんでいたようだ。周囲にも特に話題にするような人はいなかった。ただすべてのことを忘れてしまいたいかのように、野球に熱中した。実家で過ごした中・高の六年間は野球と大学受験一色だった。
 やがて大学に入り、広島市で原爆という現実に出会うことによって初めて、戦争という問題を自分自身の問題として考え、行動を開始するようになる。ところが、自らを襲った「故郷の戦争」である空襲は何故か関心の外にあった。運動をつづければつづけるほど、「故郷」は遠くに離れていくように思えた。
(青木忠)

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