空襲の子Ⅱ【7】十年間の調査報告 時代の縮図、因島(5)

 父は再婚し新しい家族のもとで私は昭和29年4月、椋浦小学校に入学する。戦後の「復興」と「民主主義」で日本中に活気が溢れ、その雰囲気は小さな町にも押し寄せてきたころであろう。


 小学校時代の最も印象に残る記憶は、「緑の山河」という楽曲であると言って過言ではない。この曲は、私が入学した同じ年に日本教職員組合が「君が代」に代る「新国歌」として募集・選定したものだという。私の小学校の運動会ではひっきりなしにかかっていた。

 一 戦争(たたかい)越えて たちあがる
   みどりの山河 雲はれて
   いまよみがえる 民族の
   わかい血潮に たぎるもの
   自由の翼 天(そら)をゆく
   世紀の朝に 栄あれ
 二 歴史の門出 あたらしく
   いばらのあゆみ つづくとも
   いまむすばれた 同胞(はらから)の
   かたい誓いに ひるがえる
   平和の旗の さすところ
   ああこの道に 光あれ

 この曲は今でも歌えるほどメロディがしみついたようだ。ところが卒業するや、中学校、高校とまったく聴くことがなくなった。それ以来、あの歌はいったい何だったのか、と気になっていた。相当の時間を経て日教組が大会などで歌っていることが分った。ああそうか、あのころはそういう時代だったのかと、合点がいった。
 それに類似した、忘れられない思い出がある。小学校の校長だった私の父が朝礼で、「遊びの始まりに『開戦』と言うのはやめましょう」と児童に呼びかけた。おそらく「開戦」というかけ声は戦前からの慣わしであったのだろう、戦争の始まりの合図を遊びに使うのはふさわしくないという趣旨だった。
 小学校4年の学校での誕生会において校長として父は、家庭ではいっさい触れなかった私の空襲体験を語った。「そうしたことにもめげず松本忠君は成長しました」という祝いの言葉であった。時代は昭和29年に入り、占領軍への配慮も不要になっていた。
 ところで、この父の話を当の本人がどこまで真剣に受け止めたか怪しい。とにかく恥ずかしかったという記憶は残っている。しかし6年生になった私が得意気に繰り広げた、「空襲遊び」の記憶の方が鮮明である。
 マッチの発火材の部分を粉にして、熱くなった石炭ストーブの蓋に振り掛けると一瞬にして燃え上がり、空襲の様に見えるのである。「B29空襲!」というかけ声とともに粉を振り落とすのである。B29とは本土空襲の主力を担った米戦略爆撃機のことである。もしもこうした遊びが、「空襲の子」であることを自覚し始めた心の乱れの発露であったとしたら、あまりにも悲しい。
 昭和29年11月、祖母ヒサノが逝った。母清子が亡くなって4年後である。祖母と母は空襲の際、身を挺して私を守ってくれた。そのことと無縁とは言えない早死にである。
 病床の祖母を実家に見舞った。何故か祖母は私に優しく、こちらにおいでと手招きした。しかし私はそれを拒絶し、身を翻した。それが最後の別れになった。祖母について何も知らなかったのだ。空襲の時のこと、病床にある母に代って私を育ててくれたことも。
 あまりにも幼かった。すべてを知るには、50年近くの歳月を要した。
(青木忠)

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