碁打ち探訪今昔四方山話【35】「耳赤」のエピソード(6)起死回生の一石三鳥の妙手

百五十年来の門風

虎次郎改め安田栄斎は天保8年11月、芸州浅野家の家臣寺西右膳に連れられて出立。年の暮れに江戸は上野車坂下の本因坊家道場に着いています。年わずか9歳で、当時は成人すればお伊勢参りに別れの水杯(みずさかずき)をして出立したという時代のことです。

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丈和が秀策に与えた初段の免許状


そのころの本因坊家は第十二世丈和の代で、天保2年6月名人就位。待望だった幕府碁所を許された実力者でした。その棋力は碁聖第四世本因坊道策に次ぐ力の持主と評価されていた人物です。

この時代の江戸には碁の家元が四家(本因坊・井上家・林家・安井家)あり幕府の碁所の地位をめぐって各家が互いにしのぎを削っていました。囲碁の世界では弟子入りしたといっても、師匠に直接対局して指導を受けることはありませんでした。まず道場の規則に従って朝夕の道場の掃除、来客の接待、師匠の送迎などで、碁の研究はこれらの仕事の合間に兄弟子と対局して研究、古棋譜を並べるという生活が続きます。人一倍の忍耐力が必要で研究心も旺盛でなければなりません。

翌9年、10歳。栄斎がいつものように道場で兄弟子と対局していました。ちょうど通りかかった師匠の本因坊丈和の目にとまり、その対局振りに「これはまさに百五十年来の碁豪である。わが本因坊家の門風は大いにあがるであろう」と大喜びしたと伝えられています。百五十年前といえば島根県西部の石見(いわみ)の国出身の第四世本因坊道策の時代で、栄斎はそれ以来の碁豪であるというわけ。道策は俗に十三段(当時九段・名人が最高)の実力で前世碁聖の名が冠せられ、丈和が後世。秀策は死後、明治になって碁聖と仰がれます。

ところで丈和はわずか10歳の栄斎少年の打碁を見ただけで将来が見えたのか首をかしげたくなります。幼い子どもの中に、天性のものを見出すことはよくあります。しかし天才といわれながら志なかばにして挫折する人も多くいますが、この丈和の言葉は時代をずらして弘化3年十一世井上因碩引退後の幻庵とはいえ「耳赤の局」は大金星。その棋譜を見てそういったのなら、跡目に秀和がいてその下に秀策が控えるのでつじつまがあうように思えます。

(庚午一生)

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