空襲の子Ⅱ【2】十年間の調査報告 井伏鱒二に出会う(2)

作家・井伏鱒二の作品で「因ノ島」という題名のものが4作あることを調べた人が、地元にいる。年代順に並べてみよう。年月日はいずれも「全集」の「解題」による。

「全集第3巻」に収録されている「因ノ島―瀬戸内の旅―」である。1932(昭和7)年10月23日、24日「信濃毎日新聞」。

筆者は、「発動機船」にのって「尾ノ道」から「因ノ島の三ノ庄といふ港」に着く。段々畑と柑橘の話。「丘の上から見学すると港の桟橋の直ぐ近くにはドックがある」。それから船を修繕する「ペンキ職工」と「仕出屋か弁当屋」の娘とのやりとりがつづく。

「私はこの島に一週間ばかり逗留するつもりで出かけて行ったが、くったくのないこの島の風物が気に入って、とうとう7ケ月ばかり滞在してしまった」。「昔の倭寇の本城だったといふ」「小型の丘」にも関心をもったようだ。

「全集11巻」「自選全集第4巻」の「因ノ島」。昭和23年1月「文藝春秋」。これはすでに書いた。

「全集第18巻」の「因ノ島」。1955(昭和30)年5月「婦人之友」の「もう一度いってみたいところ」の欄に発表。「今度もしこの島に出かけるなら、私は蜜柑の花の季節を選びたい」と記している。

「全集別巻二」の「因ノ島」である。1970(昭和45)年5月「小説新潮」の「心に残る風景」に発表。重井町と中庄町を描いている。「解題」は次のように説明している。

―本文左横に「心に残る風景」とあり、その下に「井伏鱒二/因島・重井(瀬戸内海)」、続けて小さく「撮影 中村由信」とあるように、見開き二頁の上部に大きく配した中村由信撮影の写真と、その下に置いた井伏文とで構成。

標題上に井伏写真一葉を掲載。

ところで私は最近、井伏作品を集中して読んでいる。そしてこの作家なら、「空襲で赤腹をみせてゐた廃船」や「米軍に撃たれて傾いた汽船が何隻」の情景を見逃すはずがなく、当然のごとく活字にしただろうと思った。

調査活動を始めてから終始一貫して私は、誰が最初に因島空襲を活字にしたか、関心を持っていた。該当する「因ノ島」を掲載したのが、「文藝春秋」昭和23年1月号というから、井伏はその前年に文章化していたことになる。さすがという他はない。

率直に言って嬉しかった。ほっとした。生まれ故郷の空襲がこれほどまでに無視され、葬り去られていることが無念でならなかったのだ。多くの人が見たはずの惨状について誰ひとり、文字にしないことがあってよいのだろうか。やはり見るべき人が見て、表現すべき人が、表現したのだと思った。

昭和25、26年のことであろうか、私と同じ空襲を体験した小学校2年の大田(旧姓山崎)しどりさんは、中学校3年生になって、作文「忘れられない思い出」として書いている。貴重な史料である。

最大の被害者である日立造船が初めて活字化したのは、昭和31年。因島市は昭和43年である。なぜここまで遅くなったのであろうか。報道機関は大幅に立ち遅れた。そもそも因島空襲は報道されなかったようだ。報道機関が初めて活字にしたのは、昭和54年の「別冊一億人の昭和史 銃後の戦史」(毎日新聞社)であろう。

作家・井伏の因島空襲についての記述を読んで私はあらためて、地元での調査や説明が話にならないほど遅れてしまった理由について、結論を下そうと肝に銘じた。それは作為かそれとも不作為なのか。何らかの判断があったことは確かだ。それは、調査活動の当初から私を絶えず悩ましてきたテーマである。

(青木忠)

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