空襲の子【20】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 報道する者の責任

 すでに述べたように、まったく個人的な体験と発想で因島空襲の調査活動を始めた。しかしまもなく向き合った対象は、個人で立ち向かうにはあまりにも巨大で深刻なものであることを、思い知らされることになる。そこで新聞記者という職業意識をもった取材という方法を採用することにした。つまり、個人的な体験を出発点としながらも、それを超えた職業意識を持とうとしたのだ。


 ところがたちまち、「そもそも報道機関は当時、因島空襲を報道したのか」という「報道する者の責任」の問題に直面することになった。経験は浅いがひとりのローカル紙の記者として報道にかかわるものとして当然のなりゆきだった。当時の状況から判断して、因島空襲の事実はどの報道機関にも報道されなかったと伝えられる。誰にも知られることのない、空襲犠牲者の生と死ほど淋しくてやりきれないものはないと察する。この点こそ、報道する者のゆるぎない立脚点であらねばならない。
 「たしか尾道の千光寺公園にNHK尾道放送局があったはずだ」という高校時代のアルバムの記憶をたよりに調べてみた。やはりそうだった。尾道放送局が設置されたのは昭和16年2月18日のことである。それから昭和42年3月15日福山市に移転し、福山放送局と改称された。また戦時下、防空効果の必要と放送聴取改善のため各地に臨時放送所が設けられた。放送局にとっては空襲警報の放送が至上命令であった。昭和20年8月6日、被爆し多くの犠牲者をだした広島中央放送局の最後の放送は古田アナウンサーによる、「午前八時十三分、中国軍管区情報、敵大型機三機が西条上空を、」というものだった。(NHK広島放送局六〇年史)
 当時、因島から旧制尾道中学校に通学していた人たちの話によると尾道駅の方から空襲される島の姿が見えたという。はたしてNHK尾道放送局の電波塔は何を見ただろうか。無論、戦時下と言えども新聞発行体制と配達網も確立されていたはずである。
 敗戦から20年以上経過した昭和40年代、戦災都市を中心に被害の実態を掘り起こし、見直す動きが様々な形で始まった。広島市において爆心地復元運動が地域ぐるみで行われた。福山市と呉市で空襲・戦災を記録する運動が始まった。
 『広島県戦災史』は、次のように記している。罹災後年以上経過した時点で、原爆・空襲の体験者をさがしだすことは、非常に困難な作業であったが、この面では、マスコミが大きな力を発揮した。NHKは、中国地方向けに「カメラ・リポート・爆心地半径五〇〇メートル」、全国放送で「現代の映像・軒先の尖光」を放映した。中国新聞も同様であった。同紙は、広島の被爆とともに呉空襲調査に努め、「呉空襲記」を連載した。市民から次々とリレーで体験者の紹介や資料の持込があった。
 因島空襲についても、戦後60年を機会に各報道機関の意欲的な取材が目立つようになった。初めて因島空襲についての映像が生れ、新聞報道の一つひとつが、遅れて始まった空襲実態調査を勢いづかせている。

昭和20年7月28日、呉市江田島小用港で攻撃され沈没した戦艦榛名
(続く)

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