ふるさとの史跡をたずねて【116】重の井(因島重井町伊浜)

重の井(因島重井町伊浜)

因島重井町伊浜の八幡神社に重の井という井戸がある。茂み(繁み)の湿地帯をシゲイと呼び、中ノ庄の重井浦から重井庄となった。重井と書いてシゲノイと呼んだのかもしれない。しかし、シゲノイウラ、シゲノイショウでは少々長いので、浦や庄が付いた頃からノは落ちたであろう。

重の井というのは井戸のことだが、井戸ではなく、この辺りも繁の井ということだったのかもしれない。

前にも書いたが、今のようなコンクリート製の護岸などなかった。陸と海の境はグラデーションだ。そのグラデーションの湿地が重井の井だから、伊浜も「井浜」だったに違いない。

さて、ここの重の井は、そのむかし神功皇后が水を二杯(重ねて)飲まれたという伝承の井戸である。一説に二度も着船され、それぞれ水を飲まれたという。とにかく都合二杯水を飲まれた。その井戸なので重の井と言い、それが重井の語源だと言うのである。なかなかよく出来た地名語源説話で、史実だと思っている人もいるのではなかろうか。

神功皇后のことは『古事記』『日本書紀』に書かれている。神功皇后その人の実在を史実として証明することはできないだろうが、後の世の何らかの史実を反映した伝承だとも考えられるので、神功皇后の実在をここで議論しても仕方がない。しかし、神功皇后が因島へ立ち寄られた頃には、因島にはおそらくそのことがわかる人はいなかっただろうし、そのことを後世に伝える術はなかっただろうから、重の井を含めて因島に伝わる神功皇后伝説は全て後世の創作だと、私は考える。ただ、そのような話がどのように作られたのかを思い巡らすことは有意義であろう。

単純に考えれば明治以降のことであろうか。明治維新により幕藩体制は終了し、みんな日本人ということになったが、庶民には国という概念はない。国家や国民と言ってもかいもく雲をつかむような気持ちだっただろう。そこで登場したのが大久保利通が考案し、伊藤博文が法制化したと言われる明治天皇制である。

その上、八幡神社が応神天皇とその母親の神功皇后を祀っているのだから、神功皇后の偉さは弘法大師空海の比ではなかったであろう。地名や人名の由来を知りたいと思うのは知的本能に近いものだし、また「笑い」の文化に通じるものがある。このように考えると重の井の話の考案者は、座布団五枚!と拍手喝采を受けたことであろう。

ということで、重の井の井戸は史跡というよりも、創作説話の名作の舞台として永く親しまれるに違いない。

(写真・文 柏原林造)

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