因島にて…Ⅱ 地域から見えるもの【17】研究者の試練(3)

関東大震災前夜の状況を著者の石橋克彦名誉教授は、「しかし、南関東の地底は、刻々と破局に近づいていた」と表現している。

「房総・三浦半島の各地で海岸の沈降が速度を増した。小田原では、明治40年ごろ築いた堤防が、波が少し荒いと海水につかるようになった」。大正10年(1921)12月8日、茨城県南西部でM7.0の地震。翌大正11年4月26日、浦賀水道付近でM6.8の地震。5月9日、茨城県南西部を震源とするM6.1の地震。

年が明けて大正12年(1923)1月14日、茨城県南西部でM6.1。5月下旬になると銚子沖~鹿島灘で群発地震が始まった。6月2日、M7.3と6.9の大地震と津波。そして9月1日、土曜日。

著者は、関東大震災の発生を次のように記している。

―午前11時58分31.6秒、神奈川県西部の地底でついに岩盤の大破壊が始まった。それは、たちまち巨大な亀裂となって湘南地方と相模湾の地下に拡大し、さらに房総半島までの大地を切り裂いた。1703年元禄関東地震以来220年間たまりつづけた南関東全域のひずみエネルギーが、激しい震動となって一挙に放出された。M7.9の関東大地震の発生である。

「論争の決着」は次のようになった。

―東大地震学教室では、大森教授が汎太平洋学術会議に出席のためオーストラリアに出張中で、今村助教授が留守を預かっていた。彼は地震発生時にちょうど本郷の研究室におり、だんだん激しくなる揺れを極めて冷静に体感し、烈震が一段落すると地震計の記録を解析して、約30分後には、駆けつけた内外記者団にたいして震源は相模湾だと発表した。18年前、彼はこういう地震を念頭において、50年以内の東京大震災と10万人以上の焼死者を警告し、大森教授に激しく攻撃されたが、その地震がいま発生したのだった。

オーストラリアに出張中の大森教授については次のように記している。

―いっぽう大森は、国際会議が終了してシドニーのリバビュー地震観測所を視察していた。ちょうど地震計の前に立った午後1時9分47.0秒(日本との時差は1時間)、描針が生き物のように動きだした。太平洋の遠方で大地震が発生したことを直感した大森は、記録を入念に調べ、東京付近であることを知って愕然とする。予定を早めて10月4日に横浜港に戻った彼は、脳腫瘍が悪化して重態になっていたが、出迎えた今村に留守中の労を謝し、このたびの震災に重大な責任を感じていると述べた。大森はそのまま東大病院に入院し、11月8日、後事を今村に託して55歳の生涯を閉じた。

著者は、今村明恒について、さらに書いている。

―なお、今村明恒は、東京は将来も大地震から逃れられないから遷都したほうがよいと説き、『大阪朝日新聞』なども京都遷都を主張したが、帝都復興院総裁となった前東京市長で内相の後藤新平は地震直後から遷都はしない根本方針をもっており、9月12日に発せられた詔書で遷都論は一掃された。後藤の復興計画は40億円を要する壮大なものだったが、最終的に約10分の1に予算を減らされてしまい、都市改造は不徹底なものに終わった。

関東大震災からおよそ90年がたった。東日本大震災が起こり、東海・東南海・南海地震や首都直下型地震が予測される時代となったのである。研究者たちの試練は、いっそう厳しくつづくのである。

(青木忠)

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