ふるさとの史跡をたずねて【99】稲井城跡(今治市吉海町)
稲井城跡(今治市吉海町)
南朝の要人が伊予に三度も来ている。まず最初は信濃の村上師清が伊予大島に来て村上義弘の跡を継ぎ、釣島箱崎浦の戦いで今岡通任を破った。いわゆる師清伝説である。この話には師清を北畠顕家の子であるとする別バージョンもある。二番目は篠塚伊賀守の主君、脇屋義助の伊予下向で、その後日談が前回までの話。三度目は南朝の重臣新田義貞、脇屋義助兄弟のそれぞれの遺児義宗、義治が伊予大島に来て師清を頼ったというもの。私などは、いずれか一つは史実だとしても残り二つは長い間に混同されて作られた話ではないかと思うが、どの話も面白いので、今は正否は問わないことにしよう。
さて、今回の主題は三番目の話である。足利尊氏とともに鎌倉幕府を倒したのが新田義貞と弟の脇屋義助であった。尊氏は後醍醐天皇を裏切り武家政権を立てて南北朝の動乱を生む。お家の将来を背負った日和見的な武家衆に反し、終始南朝に尽くしたのが北畠家、楠木家そして新田、脇屋の兄弟家だった。しかし、足利幕府が出来てしまえば敗者の行き場はない。そこで新田義宗、脇屋義治らは家族を連れて伊予大島まで逃げて来た。
師清は罪人である彼らに誠意をもって対応した。蟄居の身となった脇屋義治に対して子らを保護して我が子として養育することを約束し、稲井城を与えた。これに感激した義治は氏を稲井と改めた。子らは村上家の舎弟として子孫まで村上家に尽くした。第二家老稲井氏である。
その稲井城は南に武志島が見える火内鼻の近くにあったと言われている。今は来島海峡第一大橋の橋脚が立っている。海岸線を西に進むと渦浦八幡大神神社があり、山上の境内からその辺りを望むことができた。
(写真・文 柏原林造)
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