因島にて…Ⅱ 地域から見えるもの【2】もう逃げない

 ふり返ってみるに大地震というものを意識するようになったのは、大学3年目に上京して首都に住むようになってからである。瀬戸内海沿岸での生活において地震が意識にのぼることは、ほとんどなかった。


 1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災を身近に感じるようになった。神奈川県相模北西沖80キロを震源とし、建物倒壊、津波、土石流、火災などで10万5千余人が死亡あるいは行方不明になった。被害は、神奈川と東京をはじめ関東全域に及んだ。
 さらに大混乱のなかで、「朝鮮人が暴徒化した」などのデマが流され、自警団によって多くの朝鮮人や中国人らが殺された。また社会運動家の大杉栄、伊藤野枝、大杉の6歳の甥、労働運動の指導者たちが、陸軍の軍人によって命を奪われた。
 1960年から関東大震災の発生した9月1日が、「防災の日」に制定され、全国的に防災訓練が大規模に実施されるようになった。
 東京での生活が20年を超えたころ転機が訪れた。そのころ黒鯛(チヌ)釣りによく訪れていた、房総半島の富津市金谷港で東大地震研究所の研究員に出会うことになった。地震について尋ねてみた。「首都での大地震は必ず起きる。それで私は、東京から房総に引越してきた」という返事があった。
 それから数年後、長年つづけてきた政治活動のけじめをつけた私はいったんは終の棲家と決めた東京での生活をあきらめて、家族とともに瀬戸内海の故郷に戻ってきた。その判断材料のひとつには、関東大震災が再び起きることへの怖れがあった。大地震の再来に対峙し、それをしっかり理解してその場で生活していくのではなく、「安全地帯」に避難することを選択したのだ。
 ところがその後、私が体験したのは西日本での大震災であった。自らの思惑がはずれて少々拍子抜けした次第だ。1995年1月17日の阪神・淡路大震災である。遠く離れた自宅で感じた揺れは大きく、どこかで大地震が起きたことを直感した。神戸市長田区に住む叔母一家との連絡が取れなくて心配をした。つづいて2001年の芸予地震である。家族4人が、柑橘畑に肥料として敷く落葉集めのためにわが家の山に登っていた時であったが、初めて体験した大きな震動であった。
 東日本大震災で思い知らされることになるのだが、日本列島のどこが危険でどこが安全かという発想がまちがいなのだ。日本列島全体には2千を超える活断層があると言われ、さらに未知のものが発見されているという。
 さらに、巨大地震と津波の発生源であるプレート(岩板)4つがひしめき合うところに日本列島がある。まさしく「地震の巣」なのだ。東日本は北米プレート、西日本はユーラシアプレートにのっている。北米プレートの下に太平洋プレートが、ユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが毎年数センチずつ潜りこんでいる。
 ところで私はUターンして初めて、対岸の愛媛県伊方に原子力発電所があることを知った。さらに松江市にある島根原発のことを知ったのは、ずっと後のことだった。山口県上関町に原発が建設されようとしており、反対運動がつづいていることに気付いたのも2年前のことである。
 こうした地元における原発問題へのささやかな関心は、福島第一原発事故の発生に動転した私にとって救いになった。事故直後にしみじみ思ったものだ。その順番が逆だった場合には、どうなったであろうか。
 地震、津波、原発――東日本大震災でおきたすべてであるが――から背を向けてはならないと思った。自らの問題として理解し、自らの意見を形成し、それを公表する決心が固まった。
(青木忠)

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