因島にて… つかみかけた確信【68】

時代遺跡の島(19)
現代史への責任(4) ここまで捕虜収容所問題について書いてきたのだから、長い間伏せてきた問題意識のあらいざらいを文章化しようと思う。二度とこうした機会はないことだろう。


 2002年の春に私は、新潟県上越市の上越日豪協会の石塚正一会長とお会いするチャンスに恵まれた。因島や向島に収容されていた元捕虜たちを歓迎するパーティーが尾道市のホテルで開かれた時のことである。その会場で、上越市におけるオーストラリアの人たちとの和解と友好の活動を記録した、「太平洋にかける橋―捕虜収容所の悲劇を越えて」という冊子をいただいた。
 上越市にあった東京俘虜収容所第4分所(通称直江津捕虜収容所)に収容されていたオーストラリア兵捕虜300人のうち、ロバートソン中佐ら60人が、極寒、重労働、栄養失調などで相次いで死亡した。そして敗戦後、収容所の職員、警備員の8人がBC級戦犯として巣鴨プリズンで処刑された。
 戦後50年を経た1995年10月、その悲劇の地である直江津捕虜収容所跡地は平和記念公園として生まれ変わった。そこには、「オーストラリア兵捕虜死没者の碑」と「平和の空に八つの星」と刻まれた処刑された日本人8人の慰霊碑がたっている。
 直江津の人たちと元捕虜との交流は戦後まもなく始まり、1988年5月、オーストラリアのカウラ市の豪日協会と奈良日豪協会が主催して、収容所跡地で初めての慰霊祭が行なわれた。出席した石塚夫妻は、カウラで戦死した日本兵の墓地の話を聞き、愕然としたという。
 オーストラリアのカウラ第12捕虜収容所で日本人捕虜千百余人が暴動を起こしたのは、1944年8月5日午前2時のことである。それは日本兵234人、オーストラリア兵4人の死者を出して終わった。
 1964年、オーストラリア政府の協力のもと、日本政府が出資して、カウラ市に「日本人戦争墓地」がつくられた。そこに葬られた日本人戦没者は、カウラ収容所で死んだ元捕虜、シドニー湾攻撃などで死んだ軍人・軍属、在留邦人522遺体だという。
 収容所関係者8人が戦犯として処刑されたという歴史的事実は、上越市民に重くのしかかっていた。そのテーマにも臆することなく真向から取り組んでいる。遺族の想いを受けとめながら平和記念公園建設と慰霊碑建立は、市をあげた事業になっていった。
 上越日豪協会「太平洋にかける橋」には遺族の了解を得て、処刑直前にしたためられた五人の「遺書」が掲載されている。自らは無実であると明言し、人を殺した覚えもなければ、処刑される理由などありはしないことを、我が子によく伝えるようにと妻に言い残している。
 平和記念事業の実行委員長をつとめた下村省一氏は、この事業のことを「全国91か所の捕虜収容所中、ただ一つという奇跡的な平和友好事業」である、と語っている。記念式典にオーストリアの元捕虜たちと、捕虜虐待の罪で戦犯として処刑された人たちの遺族が同席し、しっかりと握手を交わしたという。
 ここにいたるまでに様々な障壁があったようだ。市民のなかからありとあらゆる意見が出され、議論がまきおこった。直江津の収容所のなかで捕虜たち60人が何故死ぬことになったのか。BC級戦犯とは、戦争犯罪裁判とは。敵味方として戦った双方が、どうすれば和解と友好をすすめることができるのか。
 たとえたどってきた歴史が辛くて、暗黒のものであろうが、それから逃げたり、それを隠蔽することより、それに真摯に立ち向かうことが、どれほど素晴らしいことか。「直江津の奇跡」に勇気づけられるばかりである。
(青木忠)

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