空襲の子【17】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 証言 星野正雄さん(下)

 星野正雄さんに本紙をお渡したところ読んでいただき、「子や孫にもしっかり読ませますから」との伝言をいただいた。こうしてわたしをいつも励ましてくれる。62年前の空襲の調査という、目標に掲げたものの見通しのたたない課題を前に逡巡しているわたしを見かねて、「本当は私らがしなければならないことを青木さんにしてもらって」と優しい言葉をかけていただいた。遅れに遅れてしまった空襲調査の大きな動機付けとなった。
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 星野さんが日立造船に入社したのは昭和16年4月1日。約500人の仲間といっしょで、昭和2年生れというから14歳の少年たちだった。当時、造船所に勤めることを「ドック行き」と称し、さげすむ風潮があったというが星野さんは、祖父の強い勧めで入社した。本人は呉市の海軍工廠か広島市宇品の陸軍運輸部をめざしていた。しかし、「長男だから島に残ってくれ」という説得に従うしかなかった。
 通勤はもちろん徒歩による中庄からの山越えの往復だった。自転車はあるにはあったが、パンクしても修理がかなわない物資不足の時代であった。履物は布でつくった草履で、雨の時には、裏に自転車タイヤの切ったものを貼り付けた下駄である。始業は午前7時。家を出るのは早朝の5時だったという。
 新入りは毎朝2時間、軍事訓練で鍛えられた。星野さんは「軍人勅諭」や「戦陣訓」を早々と覚え、上司を驚かせた。軍需工場の性格を帯びていった造船所で働くには、死を恐れない覚悟を要した。それでも先輩のなかには、「今日は必ず空襲がくるぞ」と言って体調不良を理由に休む者もいた。
 当時の勤務は、昼休憩の45分間をはさんで午前7時から午後4時45分。それから義務的残業が2時間あった。なかでも旋盤の特殊技能を身につけた星野さんには仕事が集中し、連日、夜11時、12時まで仕事がつづいた。栄養状態が悪いことも重なって疲労困憊の毎日。やがて工場がある土生町の親類宅に下宿することになった。
 しかし星野さんは辛いと思ったことはないという口ぶりだった。入社して3年間おおいに勉強ができた。腕を見込まれ、会社にも大事にされて、やりがいのある日々であった。こうして戦争下ではあったが、戦後の栄光に輝く日立造船因島工場を担う多くの優秀な造船マンが育っていった。
 中庄町から土生町までの山越えの往復通勤も楽ではなかったであろうが、気分転換には大いに役立った。同じ工場へ通う先輩との交流は、星野少年を成長させた。工場のこと、町での生活のこと、人生のこと。あるいは女性の話も出たかもしれない。まさしくそれは「峠の学校」であった。
 やがて星野さんは18歳になり、徴兵検査に合格。召集令状が届き、広島に行くことになっていた。8月6日の直前の7月28日、星野さんたちを米軍の空襲が襲った。その時代、空襲での死は、戦死ではなく犬死とされた。写真は昭和15年代の日立造船新造船建造現場。
(続く)

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