北米紙幣になった日本女性 因島出身キミコオカノムラカミ 激動の時代乗り越えた移民家族【12】


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悪夢の激動の昭和

5月1日、キミコと子どもたちは他の日系人と一緒に電車でグリーンウッドに連行されます。そして汚い季節労働者用の小さな小屋に収容されました。子どもたちは母キミコを信じ不安に耐えていましたが、父カツヨリの消息について心配でなりませんでした。


戦況は第2次世界大戦へと拡大され、日本軍の南太平洋進行作戦は米連合軍をおびやかせていたから対反日感情も高まってくるのも当然のことでした。こうした情勢のなかでRCMP(カナダ国家警察)の検閲を受けた夫カツヨリからの手紙を受け取りました。

そこで知ったのは彼は、その他の捕えられた人たちと共に、まずハスティングバーグで二晩過ごし、ブリティッシュコロンビア州のジャスパー、アルバーターそしてブルリバーの間の州境の高速道路建設に関わる労働者収容所へ転々と送られていたことがわかりました。

カツヨリは、というと手術後でもあり病弱を理由に道路建設に関わる労働者の食事を準備する手伝いをさせられることになっていました。7月、家庭のある男性は釈放され離ればなれになっていた家族は一緒に住めることになります。その条件はアルベルタにある砂糖キビダイコン(テンサイ)畑の農場で働くことでした。キミコ・オカノ・ムラカミの家族はアルベルタのマグラスで働くことを選び再会しました。ところがこの土地は日系人をひどく憎み、町の人たちは「日本人(日系人)は犯罪者」という感情が強いところでした。

しかし、反抗できる立場でないので命令に従い我慢するしかしかたがありません。再会を喜んだカツヨリ一家は豚小屋に隣接した15平方メートルのぼろ小屋を与えられました。

まるで家畜のような扱いで働かされた生活環境は、長女のアリスをBC(ブリティッシュコロンビア)セキュリティオフィス(安全保障事務所)へ直訴するまでに追い込み、抗議の手紙を書かせました。このことで今度はさらに強制収容所に送られることになります。

11月になって彼女たちの家族は深い雪に覆われたスロカンに移動させられました。そこは一家族だけでなく、その他3家族が同居で暖房のないだだ広いテントを使うよう割り当てられました。結局はスロカン湖の端にあるローズベリーに移動するまで、ずっとスロカンで暮らしたが、その間は小さな未完成の粗末な小屋を与えられ、できる限り一生懸命で防寒対策をしないと生きのびることができない過酷なものでした。

(庚午一生)