因島にて… つかみかけた確信【66】

時代遺跡の島(17)
現代史への責任(2) 日本捕虜収容所について言及したのだから私は、「捕虜虐待」問題について語らねばならない。その意味でもフレッチャー・クック氏の著作は導きの糸になった。


 日本軍は大戦の緒戦において奇襲が功を奏し、連合国側を敗勢に追い込み、予想を超えた多数の捕虜をかかえこむことになった。しかし、戦局が不利になるやそれが、重荷になったようだ。もともと兵站部門は日本軍の弱点であった。たとえ捕虜の待遇に配慮を加えようにも、その余裕などありはしなかった。
 ジャワで日本軍の捕虜になったフレッチャー・クック氏たちは、貨物船に詰め込まれてシンガポールに運ばれ、大日丸に乗換え、ベトナム、台湾を経由して日本に向かった。訳者の注釈によればこの船は、「太平洋戦争開始とともに、主としてシンガポール方面よりの捕虜その他物資の輸送に使われ、19年に撃沈された」という。「日本への船旅」は地獄であった。
-日本兵は特に狂暴だとは言えない面もあった。むしろ彼らは、私たちが陸上にいたときよりも全般的に思いやりがあったようである。しかし、なにしろ環境が悪いので、途中多くの者が死にゆくままに放置され、またその多くの者が腐敗していったのだが、私個人としては、とても人間のなし得ることとは認めがたい。
 さらに捕虜たちは、「連合国潜水艦が太平洋上いたるところで日本船舶の撃沈に、かなりの成果をあげたというニュースも聞いていた」という。著者は船倉で、「ふと私は、今もしアメリカの魚雷を受けたら、いったいどうなるのだろうかと考えた」そうだ。彼の友人J・Fは、乗船した日本船がアメリカ潜水艦に魚雷攻撃を受けて溺死した。著者は次のように語る。
-四日目に船は5隻の他の船とともに、1隻の護衛駆逐艦にまもられ、澎湖列島をあとにした。数夜のあいだは依然消燈のままである。船上の日本兵は緊張し、いら立ち、不安をかくせない。数少ないマレー語の分かる監視兵の一人が、いま船が通っている海域は、多くの日本船がアメリカの潜水艦に沈められたところであると話し、「ルーズベルトォ・ノーグッドォ」と、おしまいに彼はつけ加えた。
 日本の敗勢が強まるなかでの因島捕虜収容所の開設であった。すでに記述したように当局は、捕虜たちに日本の軍規と生活様式を強制した。しかし、捕虜の待遇についての世界の厳しい視線を無視することはできなかった。そこでその印象をとりのぞくために当局は、いくつかの宣伝工作を行なうのである。
-1943年の夏も終り間近なある日曜日だったと思う。リッキーと私をまじえた70人ほどの捕虜は、島の反対側にある三庄の学校まで、徒歩で行進させられた。着くと、待っていた日本側は三十名選んでバレーボールのチームを作りあげ、残りの者はそのまわりを囲んで、愉しげにバレーボールを観るファンのように仕立て上げた。たちまち数知れない宣伝用の写真がとられたが、…。
 しかし、そうした当局のカモフラージュを無に帰してしまう、無差別・無目的な暴行をはたらく新手の監視兵も現れた。それは二人の軍曹で、彼らは後に因島捕虜収容所から追放されることになる。
-新手の連中はソロモン群島の戦線で鍛えぬかれた猛者ぞろいである。まぎれもない”サムライ”の戦士だから、みんな”武士道”精神に燃えている。おそらく、少々たるんだ土生の空気に、彼らはその精神を示威する要を認めたにちがいない。
(青木忠)

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