因島にて… つかみかけた確信【65】

時代遺跡の島(14)
現代史への責任(1) 空襲と捕虜収容所の時代は公の歴史からすっぽりと欠落している。そればかりか地域においては、自らの現代史そのものへの言及さえ憚られる有様である。だとするならば誰かが、その時代を蘇らせる責任をまっとうしなければならない。


 ジョン・フレッチャー・クック著「天皇のお客さん 書かれざる戦史―日本捕虜収容所」(徳間書店)は、第二次世界大戦下の日本国内外の状況を実にリアルに描いている。イギリス人である著者は、瀬戸内海に浮かぶ因島の捕虜収容所を舞台に偽らざる戦史を見事に提示している。
 ところで何故、同じ歴史の局面を日本人側から記述した著作が残されていないのか。それが情けなく、悲しい。こうした日本人の沈黙が、傲慢な勝者としての「連合軍」資料に依拠した、単純な「捕虜虐待論」と、それと背中合わせの「原爆肯定論」を流布させる結果をつくりだしたのではなかろう。
 捕虜であった著者のフレチャー・クック氏とは違って私は、空襲の被爆者という立場から、同時期の因島について理解を深めようとした。それに加えて彼の著作を熟読することで、何点かの疑問が解けた。まずなによりも、私の推察をこえて、因島という地域が重要な戦場であったということである。というのは、捕虜収容所の存在が戦場としての戦略的意味を決定的に高めていたのではないか、ということである。
 因島ととなりの向島には、日立造船の巨大な軍需工場があるばかりか、それぞれ、およそ200人ずつの連合軍捕虜の収容所があった。向島収容所は因島と同じ時期に開設された。まずジャワから移送されたイギリス兵が因島と向島に別れて収容された。その後、因島にはイギリス兵が、向島にはアメリカ兵が送りこまれた。向島でも日立造船向島工場で強制労働についた。そして解放されるまでに23人もの捕虜が死亡し、所長が重労働12年、軍曹が15年の戦犯に問われた。
 向島への攻撃はなかったが、2回にわたり激しい空襲が因島を襲った。連合国軍は、日本全土への攻撃を加え、日本を降伏に追い込み、日本国内にいる3万をこえる連合軍捕虜の解放を直ちになしとげねばならなかった。因島・向島地区の400人もの捕虜を安全に解放することは、容易でなかったはずである。
 米軍は空襲を敢行するにあたって、捕虜たちへの危険を考慮したであろうか。空襲調査においてそれはひとつの疑問点であった。私の到達した結論は、友軍としての捕虜への配慮はまったくなかったということである。
 造船所のなかで捕虜たちは日本人と入り混り、各種の作業所で労働しているわけであるから、選別できるはずがない。空襲のさいは捕虜たちも、工場内の防空壕に避難したようだ。事実、1945年7月28日の空襲のときには、捕虜収容所正門のすぐ近くの民家に爆弾が投下され、ふたりの幼子が犠牲になった。
 2011年3月5日付けの朝日新聞に武田肇記者は、大阪市の捕虜収容所に収容されていた元オーストラリア兵・ジャック・レモンズさんの証言を記している。当時、日立造船築港工場で強制労働に就いていて、六六年ぶりにそこを訪れたのだ。

―一夜で約4千人が亡くなったとされる第1次大阪大空襲(45年3月13~14日)では、収容所にも焼夷弾14発が落ちた。捕虜のうち1人が死亡し、11人がけがをした。

 「空が真っ赤になった。人間が焼けるにおいが鼻を突いた。死ぬかと思った」。同じ職場の日本人社員が亡くなったのを知り、胸が詰まったという。
 捕虜たちは、友軍の空襲に死も覚悟していた。
(青木忠)

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