因島暮らしが井伏鱒二文学の大きな転機

~シンポジウム「未公開書簡群から浮かぶ井伏鱒二の青春像-自伝・絵画・恋」~

(石田博彦)

2018年1月28日(日)、ふくやま文学館で開催した「生誕120年 井伏鱒二の青春 未公開書簡(高田類三宛)の中の井伏鱒二」の関連行事としてシンポジウムがあった。講師は青木美保福山大学教授、前田貞昭兵庫教育大学大学院教授、谷川充美福山大学非常勤講師。その概要を紹介する。

前田貞昭教育大学大学院教授より

今回の高田類三宛計162通の書簡の発見の意義として、「生活的な事実がかなり分かってきた」「その時々の偽らない心情が綴られている」「大量に見つかったこと」の三点が挙げられる。

  1. 今回の書簡の発見により、年譜類の修正が必要である。
    (1)日向滞在時期が井伏本人の著述等から大正8(1919)年説、大正9(1920)年説とあったが高田宛書簡から大正10年7月~8月でほぼ確定ではないか。
    (2)隠岐島旅行時期は、同じく高田宛書簡から大正8(1919)年夏説から、大正9(1920)年7月10日前後ではないか。
  2. 因島滞在(大正10(1921)年10月~大正11(1922)年3月末)前後の書簡類から、井伏自身の心の揺れ幅が見え、後年因島滞在について書いたものとはかなりずれがある。


若き日の井伏鱒二

大正10(1921)年9月 ※9月1日~21日の内 普通はがき

僕は僕の仕事にも興味がなくなつて、来てゐます、たゞ詩だけがなぐさめてくれますが、それは僕のゆく路ではなし、誠にさみしい感じです、このまゝ秋になつたら今年も何うなることだらうと今からおちつきを得ませぬ、

大正10(1921)年[9月]21日 絵はがき

二三日のうちに家に帰ります。貴兄■理解して下さることでせうが、何うも、■■■ない何か、えたいのしれない壓迫許りせ■■せるのです。向ふ一年間静かな生活を[おく]つて、又、捲土重来とやつて来る考へです。旅行もいゝと思ひますが、何かまとめて読み度いので、日向にでも行かうかと思つてゐます。いよいよの結果、何うなるかしれませんが、書くことだけは止し度く思ひません。早くいゝものを書きためたいと思つてゐます。(原文ママ)

大正10(1921)年10月[30]日 普通はがき

暗夜行路其他、志賀さんのものなら何でもよろしい、それ等を拝借出来ませんでせうか、それからワイルドの童話集もお持ちなら、すみませぬが同じく御無心いたし度く思ひます、[略]こゝに来て私は短のを二つ書きましたが、ものになつてゐない気がします、何うして何故、えらい作家と同じ様にタマセヱをゆりうごかすようなものが書けないかと日夜、そのため思ひなやみます、

大正11(1922)年4月 普通はがき

毎日はげしい勉強をしてゐます、粗衣粗食でまだ花見にも出かけません[略]文壇へ出られない眞面目な人で願立てをしてゐる人もあります、僕はあまり甘くかゝつてゐたやうです、努力より他はないと思ひます、出やうといふ努力ではなく酔はふといふ努力です、人世に対しては何の意見も希望もありませんが藝術に対しては理想主義者になつてゐます、小説を書くなどゝいふこととも結局人間をセンレンすべき遠い路ですね。今から幼稚園へ入つた気持ちです。そして冷くでなく温い人にならうと旅立つてゐます。

※はがきのアンダーラインは前田教授による。

井伏自身の因島滞在回想には「私の操行は従前にくらべ一変した。酒を飲むことを覚え、艶福を求める目的から夕方になると顔を剃つて酒をのみに出かけた。」「退屈しのぎにトルストイを読んでいた。」(「鶏肋集」)、「文学的には殆んど精進する気持を失つてゐた。」(「後記」)と若い芸者と遊び、酒ばかり飲んでいたという記述が多いが、高田宛はがきには文学に対する強い意志が正直に書かれている。当時、早稲田大学を休学し、東京から因島へ自ら「幽閉」するということは、文学への足がかりを失い、諦めることに等しい。大正10(1921)年の後半から、大正11(1922)年春にかけて(つまり因島滞在記に)井伏文学に大きな転機があったと言わざる得ない。

谷川充美福山大学非常勤講師より

高田宛書簡類の中から友人の田熊文助に関する内容が発表された。つまり、大正13年(1924)年の井伏の恋愛問題についてである。田熊は井伏とは科は違うが早稲田大学の同期生で親友である。柳井高等女学校の国語教師をしていた。大正13(1924)年、田熊が下宿していた「凌波館(りょうはかん)」の離れに滞在する。田熊とはお互い結婚相手を紹介する約束をする。井伏は高田類三の妹を紹介し、こちらは縁談は成立した。しかし、田熊は谷サトという女子学生を紹介する。井伏は女子学生に一方的に恋をし求婚するが、失恋する。

高田宛書簡類の中から

  1. 田熊と高田類三の妹の結婚をめぐって何かトラブルがあり、井伏が板挟みになったのではないか。
  2. 大正13(1924)年11月ごろの手紙では、井伏が谷サトに贈った贈り物が返品されたらしい。その時の井伏の心情は「凌雲閣が崩れる」ほどの衝撃と表現されている。
  3. 年譜類では柳井には半年近く滞在したとあるが、1ヶ月程度の滞在である。「柳井のお大師山」の中に一ヶ月とあり、意外と作品の中に事実を入れていたのではないか。
  4. 井伏と谷サトとは何となく別れたとされているが、事実は井伏は強く結婚を望んでいて、失恋が井伏にとって痛手であった。
  5. 昭和5(1930)年、既に結婚していた井伏のもとに、突然谷サトがが訪れる。失恋が井伏の誤謬であったことに気づく。

このいきさつは小説の「女人来訪」となった。田熊文助は後に山口県議会議員となり、議長をつとめたこともあった。

青木美保福山大学教授より

宮沢賢治の「心象スケッチ」は絵画が大きな影響を及ぼしたと思われるが、井伏の高田宛の書簡類にも絵に関する話題が多く含まれている。賢治は明治28年生まれ、井伏は明治31年生まれであり、いわば同時代人である。同じ表現の出発があるのではないか。

  1. 大正6年のはがきに、中学時代の画を描くサークル「蘇迷蘆会」のメンバーであったとのことが登場。
  2. 大正9年のはがきにも、東京の洋画の展覧会についての話題があり、まだ見ないとある。

井伏は中学卒業時に橋本関雪へ弟子入りを希望したが断れる。大学入学後も日本美術学校別科にも通った。井伏も、文学と絵の間揺れ動いたのではないか。井伏は頭の中には文学と絵画という表現する2つの分野があった。井伏は後に「セザンヌの時代は文学もいい時代だった。」と語っている。井伏が作家になろうとした時代は、第一次世界大戦の好景気の中、大勢の人が美術展覧会に押し寄せ、その中から多くの画家・作家志望者が生まれるという時代であった。

アントニー・V・リーマンによれば、井伏は小説「鯉」の中にセザンヌの「水浴」の構図を反映させたとある。青木教授はむしろ小説「朽助のゐる谷間」により「水浴」を反映させているのではないかとする。


これから研究が始まったばかりで、次回は10月以降に「宮地茂記念館(福山市)」でシンポジウムを開く予定である。

 

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