因島にて… つかみかけた確信【64】

時代遺跡の島(15)
米軍作成地図 2008年8月、空襲当時に米軍が作成した、「土生 日本本州広島県因島」というタイトルの因島南部の地図が送られてきた。1万2500分の1で約60センチ四方の大きさ。無論、すべて英文である。「初版AMS(米国陸軍地図局)1945」「戦争と海軍機関に限り使用し、販売もしくは配布を禁ずる」と記されている。


 私を紹介した毎日新聞「ひと」欄を見た、福岡教育大学名誉教授の赤木祥彦さんからであった。急いで連絡をとり、福岡市の自宅を訪ね、話をうかがった。教授の専門は地理学や地形学で、多くの地図を収集している。「そのなかで、因島土生という狭い地域がこのような地図になっているのは珍しく、不思議に思っていたが、空襲の話を知って納得した」、と話していただいた。
 この米軍地図は空襲を実行するための作戦用のものではなく、空襲当時の因島(土生町、三庄町、田熊町)の地理を克明に記した通常用のものである。まず際立っているのは、日立造船因島工場と同三庄工場の両造船所が詳細に描かれていることだ。潮流や水深も記入されている。戦後は移転され、その跡地に新制中学校が建てられた「隔離病院」も明記されている。当時の様子を観察できる貴重な史料でもあるとも言える。
 しかし、地名のローマ字表記に明らかな誤りがある。例えば土生町の「安郷(あんごう)」が「ヤスゴウ」、三庄町の「家老渡(かろうと)」が「カロウワタシ」、三庄町の「神田(じんでん)が「コウダ」、と誤記している。おそらく米軍は、地元の人間からの情報を得て、地図を作成することはできなかったのであろう。
 私はこのようにして、米軍作成地図が入手できたことに勇気づけられ、国家が収集している歴史史料のなかに因島の痕跡を探そうと思った。2008年12月、東京都目黒区の防衛省・防衛研究所に向かった。すでに何度も電話でやりとりをしていたが、そこにわずかに残っている史料をこの目で確かめたかった。訪ねると担当者の歓迎を受け、すぐに見せてもらえた。
 「昭和36年12月1日 陸軍船舶部隊略歴(その二) 厚生省援護局」につづき史料名「機動輸送第二二中隊(暁第一六七六八部隊)略歴」とあった。内容は次の通り。数字は1945年(昭和20)の年月日を示している。
20、7、25 三庄着。
20、7、28 三庄入渠中に於いて対空戦斗を実施す。
20、7、26
20、8、12 SB艇の修理整備作業に従事す。
20、8、13 三庄出発。
部隊長 中尉 岩城彪三
 このメモは、部隊長の岩城中尉が厚生省援護局に提出し、防衛研究所に回ってきたものである。その場で彼の消息を調べてもらったが、残念なことに見つからなかった。帰り際に、担当者から国立国会図書館・憲政資料室の資料を渡され、そこに行くことを強く勧められた。一泊し翌日、時間がなくて下見程度になったが、国会議事堂のすぐ近くの図書館に足を運んだ。
 再びそこを訪ねたのは翌年の4月だった。めざすものは、連合国が作成した「日本占領関係資料」である。問題はそのなかに因島関係のものが含まれているかである。担当の職員に尋ねたところ、因島関係が14項目に整理されて収められているとの回答を得た。
 身体に衝撃が走った。昭和史の流れの只中に因島を感じとったからだ。この資料を検索し、開いたのは私が初めてだろうと思った。やっとここまでたどりついたのだ。国立国会図書館に蓄積された膨大な資料のなかに埋もれて、ひっそりと私を待ってくれていたのである。「時代のなかの因島」こそ本連載のテーマである。
(青木忠)

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