因島にて… つかみかけた確信【61】

時代遺跡の島(12)
因島捕虜収容所(10) 著者が福岡県宮田の収容所にいたのは1945年の6月から9月である。その時期には、日本の敗戦は確実になっており、収容所側もそのことを自覚していたはずである。著者はここで「8月15日」を迎え、解放されたのである。解放されたことについて、次のように述懐している。

―まさか、こんなことになるなんて、夢にも知らなかった。なにしろ、それまでの私ときたら、ときにはこのまま宮田の土地を生きて離れられはしないと思ったものだ。もっと悲観的になったときなどには、捕虜全員が、監視兵に銃殺されたり、刺殺されている光景さえ連想された。

 捕虜殺害は決して単なる連想ではないことを著者は、解放後まもなく、同じく宮田にいたオランダ軍将校から聞くことになった。

―彼がいうには、8月15日が過ぎてからのこと、オランダ兵通訳が収容所の事務所で、日本側の書類を盗み見たというのだ。それは東京の陸軍省から所長に宛てた命令書で、その文章の中には、九州に連合軍が上陸して、”神州が汚されたとき”には、宮田の捕虜を廃坑内で処刑せよ、といった意味のことが書かれていた。その処刑の方法は、廃坑内の捕虜に石油を浴びせかけたのち手榴弾を放り込んで、最後の仕上げを機関銃でするというものだったというのである。

 著者は、「これを聞いて、突然、パズルの謎がとけた。」と語っている。避難訓練が廃坑を使い、何回か行なわれたという。その最初の訓練のとき、廃坑の入口で2人の日本兵が機関銃を構えていたのだ。
 ところで捕虜たちが解放される過程は単純ではなかった。8月15日、収容所の軍曹から、「正午に天皇の玉音放送があった」と、知らされた。19日の朝、収容所長が捕虜側に戦争が終わったことを告げた。ところが正午に日本機が飛んできて鉱山周辺にビラをまいた。それで事態が一変する。戦争再燃か、収容所内に緊張が走った。「天皇の放送内容いかんにかかわらず、九州の日本軍将兵は最後の一兵まで戦う」という内容であったからだ。
 ようやく捕虜たちの解放が、正式に伝えられたのは8月22日午前10時のことだという。形ばかりの式が開かれ、その場で所長がその趣旨の挨拶をした。その式典後、著者たち因島からの仲間3人は、「土生ではどんなフィナーレになったか」、その様子を思い描いたという。

―私たちが日本内地ではじめてすごした収容生活、とくにつらい1942~1943年の冬を過ごした土生こそは、私たちが日本における捕虜のなんたるかを、身をもって学んだ土地である。”大日丸”をはなれたあとに、辛うじて残されていた各人の個性を核として、そのまわりに間断ない焦燥の層を積み重ねてできあがったのが、土生の真珠―捕虜生活だった。

 善通寺や宮田での体験や苦労は、まだ真珠貝のように、ときには真珠を吐き出すこともできた。が、土生の真珠は違う。その品質の如何をとわず、それは私たちの心の奥深くに沈んで、二度とふたたび吐き出すことができないものなのだ。
 私たち3人に、この捕虜生活最後の瞬間を、土生で迎えることができなかったことは悲しみとして残るだろう。
 捕虜たちが待ちに待った友軍機がやってきたのは、28日のことであった。B29爆撃機三、四機が収容所の上空を30分くらい旋回して帰っていった。そして翌日の昼ごろ、再びB29が表れ、救援物資をパラシュートで投下したのである。これで初めて、捕虜たちの解放は確実となったのである。
(青木忠)

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