北米紙幣になった日本女性 因島出身キミコオカノムラカミ 激動の時代乗り越えた移民家族【6】

日本の神々に守られて

このころ(1910年)の日本は明治維新により”西洋かぶれ”の傾向が強く”洋服”を来て帰郷したキミコは村の子どもたちからうらやましがられました。祖母に当たる未亡人カル(78)との暮らしは、地方弁まじりのたどたどしい片言の日本語と風俗風習を調和させることに気をくばることでした。


祖母に当たる未亡人カル(78)との暮らしは、地方弁まじりのたどたどしい片言の日本語と風俗風習を調和させることに気をくばることでした。

田熊村立小学校までの通学路は約300余メートル。菅原道真(すがわらみちざね)公を祀った田熊天神山の西方にあたる祖母の家から樹齢600年という楠木の大木が目印の天満宮の石段下で一礼して村役場を左折。爪先上がりの坂道にかかる。

約100メートルの坂道だが小学校低学年の児童は息切れする。この上り坂は田熊八幡宮への参道の一部で村の人たちは亀の甲の型をした神域を”御山(みやま)”と呼び、一の鳥居の前で二拍手を打って通り抜けるのが習わし。

鎮守の森の東側にある小学校に入ると教育勅語が保管されている奉安殿に一礼して登校する日が続きます。キミコは「日本は神様が多いところだなあ」と首をかしげた。

祖母カルは自宅のすぐ近くに菅原道真公が魚釣りで座ったという石碑や文学の神様道真公の伝説を手ぶり見まねで説明するのだがキミコとサヨコが理解するにはあまりにも幼かった。高学年になるにつれて小学校の二ノ宮金次郎が芝を背負い読書をしている銅像には興味があったようだが、校舎裏の水田用の大きな溜池は2歳で溺死した三女の悲劇を思いおこすのできらいな風景であったようです。

光陰矢の如し―。田熊村の祖母との生活が6年経った。言葉については子どもの記憶力は柔軟でペラペラになり日本の文化習慣は身についたが、どこでどんなことがあろうと父母と一緒に住みたい―という思いはつのるばかりでした。小学校を7年かかって卒業、15歳になったキミコ=写真=は妹サヨコを連れて父母がいるカナダへもどる決心をします。いまで言うなら中学一年生で、当時の小学校は校長の裁量で4年生で卒業する児童もあり、ゆうずうのきいた時代でもありました。

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Salt Spring Island Archivesより

ともあれ、キミコは父母や妹と一緒に暮せる思いをめぐらせ、ひとりでパスポートや長い船旅の準備をしました。そうしたなかでも祖母が縫った日本の伝統的な着物を来た写真をパスポートに貼り付けジャパニーズ・コスチュームとして末永く大事にしていた心情も分かるような気がします。

(庚午一生)

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