因島にて… つかみかけた確信【60】

時代遺跡の島(11)
因島捕虜収容所(9) 善通寺では食糧の欠乏に対処して、収容所の命令で将校をも含めて捕虜は農地の開墾に参加した。まさに、「私たちは、生きんがために進んで開墾作業に従事した。」という状況であった。しかし事態はいっそう深刻化していった。ついには、一部の捕虜たちが、夜間、収容所を脱出し、村の店にタバコや食糧を盗みに入っていることが発覚した。


 収容されている捕虜の数は、さらに百名増えて800人に達していた。「飢餓地獄」の進行は、収容所の秩序を大きく揺るがせた。

―私たち捕虜は、もはやその時、日本人にもっと食べものをくれということはできなかった。当の日本人自身が、全国いたるところで飢えていたからである。そこで私たちの委員会も、収容所当局が赤十字援助物資の獲得に全力を投じてくれるように、必死で彼らの尻を叩いていた。

 その結果、大量の赤十字援助物資が大量に送り届けられるという噂で持ちきりになったが、その代わりに一人あたりの米飯の配給が減らされて、いっそう事態は絶望的になっていった。
 1945年5月後半に突然、善通寺収容所が閉鎖になり、東京など全国数カ所に捕虜たちは移動させられることになった。その理由は明確にされず、捕虜たちの間には、「アメリカ空軍が最も狙いそうな目標地域へ、送りこまれる」、という噂がとびかった。
 著者らイギリス将校たち45人は、福岡県宮田の炭鉱に向かった。そして解放までのおよそ3カ月をそこで過ごすことになった。
 この炭鉱について著者は、次のように説明している。

―あとで聞くと、この炭鉱は1937年に経済性と危険性を理由にいったん閉鎖されたのだそうだ。それが極度の燃料不足から、この山もまた見直されることになったのであろう。切迫を続ける戦時経済のためには、少々の不経済性は問題ではないうえ、捕虜を労働力に活用すれば、第2の危険性という問題も氷解するかもしれない。

 宮田捕虜収容所は、善通寺から移動した捕虜を合わせて、将校百名ら総数750名になった。もともと大半がオランダ兵で、他に少数のアメリカ、イギリス、オーストラリア兵がいた。
 敗戦が目前に迫っているという戦局の影響か、この収容所は末期的な様相を呈していた。善通寺から移ってきたイギリス将校にむかって所長は―直訳すれば、―次のように演説をしたという。

―これは歓迎の演説だ。お前たちに言うが外へ出ようとする者、俺の話す命令にしたがわん者、だれでも射ち殺すか刺し殺す。お前たち、言うことわかったら、俺の命令にしたがうと誓って、みな手を挙げろ!

―宮田は働くための収容所だ。俺は働き者の収容所をつくった。これからも、このことは前と同じだ。

 所長はこの演説をしながら、「腰の軍刀を抜いたり、収めたり、抜身を二度、三度と振ってみたり、いろいろなゼスチュア」をしたという。
 またこの収容所では、地元の青年団を監視助手として、使っていた。イギリス将校たちは彼らに〝暴力団〟と仇名をつけた。著者は繰り返し非難している。

―このような私たちよりも、12から15歳と思われる”暴力団”の連中が畑仕事をすれば、そのほうがよほど能率的であったであろう。が、連中ときたら、自分たちの祖父に近い捕虜を棒でぶん殴るほうを面白がったし、捕虜たちは、腕章を巻いた”暴力団”の連中に、敬礼をしなければならなかった。

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