空襲の子【16】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 証言 星野正雄さん(中)

 お気づきになった方もいらっしゃると思うが、本連載バックナンバー【15】の星野正雄さんが体験した日立工場の空襲とバックナンバー【14】で紹介した故巻幡進一さんのお話は、同じ場面である。防空壕内での犠牲者としては因島工場最大のものであったと言われている。おそらく当時の工場内で働いていた従業員にとって忘れようにも忘れられない、心の奥底に刻み込まれた記憶であったのだろう。
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 星野正雄さんたちが働いていた機械工場など=写真=は、造船工場の中枢であると言えよう。そこでは、いすゞ小型ディーゼルエンジンなど船のエンジンを製作していた。また人間魚雷「回天」を造っていたという目撃談もある。
 米軍の爆弾は、定盤工場(芯出工場)すぐ脇に真砂土を1メートルの厚さに盛り上げてつくられた簡易防空壕を直撃した。工場群の屋根板の大半は爆風で吹飛び、工場内の設備は砂まみれになってしまい、使い物にならなくなった。ともかくも片付けが終わるまでの数日間は操業できなかった。
 米軍の空襲は中枢部分を狙いすまし決して的をはずすことはなかった。攻撃目的は造船工場の機能停止と従業員の戦意喪失にあったことは明白であった。
 星野正雄さんの証言メモをさらに細部にわたって見ていこう。機銃掃射で出勤中の土生小の越智君が死亡とある。土生小とは土生尋常小学校高等科のことで現在の中学生にあたる。筆者は何人もの方からこの話を伺ったが、フルネームと住所が判明していない。ご存知の方がいらっしゃったら教えていただきたい。星野さんは土生町塩浜区の方ではないかと言う。
 爆弾に直撃された簡易防空壕はひとたまりもなかった。内部にいた星野さんと同一職場の7人と他の職場数名の犠牲者が出た。また逃げおくれた朝鮮人玉掛工数名が死亡した。星野さんは防空壕への避難が間に合わず近くの遮蔽物の陰に飛び込み助かった。
 防空壕内の死者はすべて圧迫死であった。空襲警報下の救出は困難を極めた。砂に埋もれた仲間をスコップを使わず手で必死に掘り出した。
 亡くなられた職長の岡野孫三郎さんは田熊町出身、伍長の楠見高行さんは三庄町千守出身である。同じく伍長の中元さん(上島町佐島出身)は戦地から帰り日立に勤めていた。新婚さんだった。越智・福井さんは上島町岩城ではないかと思われる。
 制空権は完全に米空軍にあり、造船所内外からの対空放射による反撃は無力であった。造船所はなすがままに蹂躙された。7、8千人いたとされている従業員たちはただ逃惑うだけであった。そこは戦闘員同士が戦う戦場ではなかった。
 因島空襲とは他地域と同様に戦争ですらなかった。そのために訓練を重ねた戦闘員が、逃惑うしか術のない無抵抗の民間人を一方的に無差別に殺戮する地獄であった。今のわたしには決して、「それが戦争というものだ」と言って納得顔はできない。
(続く)

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