因島にて… つかみかけた確信【56】

時代遺跡の島(7)
因島捕虜収容所(5) 当然のことだが収容所側は、英軍捕虜に対して、日本の軍律への服従と日本の生活に慣れることを求めた。


 所内規則もことこまかく決められていた。「規則違反、不服従、作業拒否、逃亡または反抗の試み、反乱または反乱の示嗾、組織活動をなすこと、これらはすべて厳罰に処せられると規定してあり、おしまいに、脚注として大きな赤い文字で、『上記いずれかに〝まぎらわしき者〟もまた罰せられるべし』とあった」と著者は記している。
 捕虜への暴行も日常茶飯事だったようだ。捕虜がボタンをはずしていたとか、気づかずに日本軍将校に敬礼をしなかったとか、点呼にわずかでも遅刻したなどの理由で殴られた。場合によっては懲罰房に入れられた。こうした収容所の行為は、軍人としての捕虜たちの誇りを傷つけた。収容所の医療環境は最悪だった。

―私たちが土生に到着してから72時間以内に、3名の病人が赤痢で死亡した。彼らは、ほとんど治療も手当もしてもらえずに死んでいった。私たちの執拗な要求で、ようやく病人部屋に炭火鉢が支給された。

―私たちはちょうちんの灯りをたよりに、細い山道を登り下りして、島の反対側にある岩山の岬まで歩いて行った。途中、ちょうちんを持つ役と、棺をかつぐ役と交替しながら。岬には小さな建物があって、これが火葬場の役目をしていた。その後、冬の間中しばしば訪れたので、この建物とはすっかりなじみになってしまった。

―帰途、もう私たちはかつぐものもなく、身軽になって村の小道を行進して来ると、小さな木彫り人形を売る店に、明るい紙ちょうちんの灯りがともっているのが見えた。私たちが日本で初めて眼にした美しい光景である。また、その家の中で色あでやかな着物を着てすわっている少女の姿は、さらに美しいものに思われた。

 著者の記している火葬場は、私の生母、祖父母が荼毘にふされたところと同じであろう。彼らが往復した小道も見当がつく。私の実家のすぐ側を通ったに違いない。私が生まれた神田という地域は当時、造船所に入った船員を客にする、旅館と料亭、遊郭、芸妓の置屋と検番ができて、紅灯がともる、若者たちの慰安の場であった。
 突然捕虜が3人も死んだことは、収容所側に衝撃を与えた。捕虜側の要求が通り、パンを焼くオーブンが導入され、少しずつではあるがパンが支給されるようになった。また重病人を船で同じ町の病院へ運ぶことが許可された。収容所の真ん前には桟橋があった。そこから船で出発し、地蔵鼻という小さな岬をまわって港に着くとその近くに病院があった。
 捕虜たちは軍規と士気を保持する空軍部隊であった。彼らの隊長は収容所側に待遇改善のために執拗に抗議しつづけた。「食事に関し、病人の取扱いに関し、風呂の回数に関し、オーバーコートに関し、造船所で将校が何もできずに漫然と立つことの不要さに関し、…一言でいえば、彼はあらゆることに抗議したのである」。
 こうした隊長の抗議の姿勢は、直接の改善につながらなくとも捕虜全体の士気高揚に役立った。著者は生き残れるなら2年ぐらいで解放されるという望みを感じていたようだ。それまで、身体を丈夫にし、精神の安定を保つことがいかに重要であるか語っている。

―たとえ日本側から命令されなくても、柔軟体操をするとか、自ら知的規律を課すとかすれば、生きて行く苦しみの中でどれほど支えとなるかも知れない。私は少なくとも日に1時間、日本語の勉強をすることに決めた。

―もしかすると、捕虜であること、捕虜の苦しみに耐えること自体が、知らぬ間に、連合国の活動へわずかなりとも貢献していたのかも知れない。

(青木忠)

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