因島にて… つかみかけた確信【54】

時代遺跡の島(5)
因島捕虜収容所(3) 「天皇のお客さん~書かれざる戦史―日本捕虜収容所」の著者であるジョン・フレッチャー‐クックが私の生まれ故郷にあった収容所に囚われの身になっていたのは、1942年11月から翌年11月までの1年間であった。ちょうど私が生まれる1年前のことである。彼が記しているのは、私が生まれた当時のふるさとの出来事なのである。


 著者は収容所の建物について次のように描写している。

―収容所の建物は、日立造船の人たちによって、日立造船の経費でもって建造中であった。収容所の位置は、島内を一巡する道路と海岸間の空地にあって、まあまあの場所であった。道路の向うの方、収容所の門の反対側には、ミカンの木の林があり、…。

―荒けずりの松の木で造られた平屋建のバラックで、壁にも天井にも大きな割れ目や隙間がいっぱいあり、戸や窓も建付けが悪く、いつも開けたときにつかえてしまい、閉めるのに一苦労する始末だった。暖房設備は皆無だった。海岸沿いに建てられたこの建物は、夏の住居としては長所もあるかも知れないが、寒い日本の冬に対しては、まったく不適当なものだった。

 ジャワで捕虜になったイギリス空軍兵士およそ百人を受け入れることは、因島の収容所側にとって初めての経験でもあり、大変であった。著者は、その慌てぶりに次のような印象を持った。

―私たちが収容所に着いたとき、所長はまるで学生寮の寮母さんが、多勢の学生たちを迎え入れるときのように騒ぎまわっていた。このことは、彼が疑いもなく本質的には気のやさしい男であることを証明した。しかし彼は彼の立場と責任、そして私たちが捕虜であることに気がつき、にわかに私たちをどなりちらし殴りつけるのだった。

 収容所の職員は10人ほどの軍人と軍属で、将校は所長のN大尉ひとりであった。それに対し、捕虜の側は5人の将校を中心にした部隊であった。単なる民間の囚人ではなく、母国への忠誠を堅持した軍人の集団である。肉体が拘束されていようとも捕虜の側の精神的優勢は明白であった。
 しかも戦争はいっそう激化しており、奇襲に打って出た日本軍の初期的優位性は失われつつあった。軍人たちは日英とも戦局には敏感であり、戦争における力関係の変化が微妙に捕虜収容所内部の空気にも反映し始めていた。
 英軍捕虜たちは収容所に入ってまもなく日立造船因島工場で作業につくように命じられた。造船所幹部は捕虜を作業別の小グループに分け、それぞれの職場に配置した。著者は当時の造船所について次のように認識していた。

―私たちが最初に造船所を訪れたとき、すぐにわかったことは、この造船所が日本の東南アジアへの海上進攻計画を実践するために、相当重要な役割りを果たしたであろうことであった。

 英軍の捕虜たちは、自分たちが労働についている工場が敵国の大軍需工場であることを理解していた。著者は当時二万人もの日本人従業員が働いていたと記している。
 そのうえで著者は、「たかだか百名そこそこの捕虜を、しかも栄養失調で、造船技術のかけらとて持ち合わせていない私たちを、はるばるジャワ島から何千マイル離れたこの瀬戸内海の小島に連れてきたとは」と、自問自答する。そして、「連れてこられた理由の唯一つ、造船所で働く従業員たちの志気を昂揚するためだと思われる」と結論付けるのである。
 捕虜たちは、「仕事に対する無知に悪意をかさねて、確実に作業の結果が悪くなるようにした」という。

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