因島にて… つかみかけた確信【53】

時代遺跡の島(4)
因島捕虜収容所(2) 因島などの捕虜収容所における「虐待行為」をテーマにしたテレビドキュメンタリー「212枚の認識票~英軍捕虜の傷痕と戦後補償~」を改めて見直して、再びそれへの物足りなさと、その内容の安易さを感じざるをえなかった。それは、連合国側が作成したBC級裁判資料の追認と反復でしかなかった。


 アメリカをはじめとする連合国は戦勝国として、ニュールンベルグ裁判や東京裁判などの戦犯裁判において、敗戦国の戦争犯罪を報復的に裁いたが、自らのそれを決して問題にすることはなかった。私は、因島捕虜収容所問題を文章化する以上、本当に何があったのか、その実像に少しでも迫りたいのである。
 その導きの糸として一冊の書物を選択した。それは1969年に著された、「天皇のお客さん~書かれざる戦史―日本捕虜収容所」(ジョン・フレッチャー‐クック著、徳間書店)である。著者はイギリス空軍将校としてジャワで日本軍の捕虜になり、1942年11月から1年にわたり因島収容所で過ごし、四国の善通寺収容所を経て、日本の敗戦によって福岡県の宮田の収容所で解放された。
 8年前にこの本をコピーで読んだ。日本を訪問する元英軍捕虜たちの活動を支援する中心メンバーから薦められたのである。原稿を書くにあたって最近、再び熟読した。そしてもう一回読もうと古本ではあるが現物を購入したのである。やはり手応えがあった。著者は「まえがき」でつぎのように述べている。
 ―試練の4年間を通じて、私は綿密な日記やノート、さらにはさまざまの記録をのこした。それらの中には、私が収容所内でしたため、ついに投函されることなく終わった手紙類も含まれている。まったく、自分以外の誰の眼をもとおさなかった手紙である。このように、相当量の関係文書を基にして、本書は成り立っている。
 もちろん収容所内で日記を書き残す行為は厳禁であり、見つかれば厳しい制裁を受ける。日記を秘匿しぬき、本国に持ち帰ったのである。さらに著者はつづける。
 ―私は自分の捕虜仲間はもとより、捕虜係、さらに文中に出てくるすべての人たちに対してフェアであったと信じている。良い日本人もいれば悪い日本人もいたと同じく、良い捕虜もいれば悪い捕虜もいたのである。
 読めば読むほどその内容に引き込まれていった。本人でしか記せない、すぐれた体験記であるばかりか、ジャーナリスティックでもあり、文学作品でもあった。
 著者は職業軍人ではない。オックスフォード大学の士官養成部に入隊。イギリス植民地マラヤ駐在事務官から、シンガポールで空軍に志願。1941年12月8日にマレー半島に上陸した日本軍の捕虜になった。いったんは軍務として脱走したが、再び捕らえられた。そして1942年10月、1カ月をかけて船で日本に連れてこられた。
 シンガポールで6000トンの輸送船「大日丸」に乗船、出航した。日本への船旅は危険であった。すでにこのころ、「連合国潜水艦が太平洋上いたるところで日本船舶の撃沈に、かなりの成果をあげていた」という。船内の環境も劣悪だった。途中多くの捕虜が死亡し、水葬にふされた。
 ようやく船は門司港に着いた。さらに船で下関に向かい夜行列車に乗った。尾道駅で下車したのは翌朝であった。
 ―午前11時ごろ、私たちは尾道の渡船場まで少々歩き、引き船に乗り込んだ。(中略)船は2時間ばかり瀬戸内海の島々をぬって行く。たくさんの船が建造中の、巨大な造船所に近づいてきた。因島の土生の小突堤に接岸すると(中略)見物の者が出てきたようである。
 因島捕虜収容所での生活がはじまるのだ。
(青木忠)

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