因島にて… つかみかけた確信【52】

時代遺跡の島(3)
因島捕虜収容所(1) 第二次世界大戦下の1942年11月から敗戦までのおよそ3年間、因島三庄町に英軍捕虜収容所があった。私が生まれた家から2、300メートルのところで、海沿いの木造二階建ての建物である。


 現在はその痕跡もなく、多くの民家が並ぶ住宅街に変貌している。その面影は、占領軍が撮影した写真、捕虜の英軍兵士が描いたスケッチに残されている。
 ここには最終的に185人の捕虜が収容された。ジャワから到着した捕虜のなかから、1カ月も経たないうちに8人の死者が出た。つづいて終戦まで4人が死んだ。さらに終戦直後に1人の捕虜が亡くなった。
 敗戦後、因島収容所の職員三人がBC級戦犯とされた。「連合軍捕虜の墓碑銘」(草の根出版会、笹本妙子著)には次の記述がある。
 ―収容所長と捕虜係り通訳、そして「ミニー」と呼ばれた軍属である。所長は、部下の残虐行為を放置し、所長としての職責を怠ったとして重労働二年、「ミニー」は捕虜にたいする虐待(殴打、打擲)の罪で3年、通訳も捕虜への虐待の罪で6カ月の判決が下された。
 こうして因島三庄町は、捕虜虐待の地という不名誉を刻印されることになった。
 私がこの歴史的事実を知ったのは、1997年から始まった「アガペ・心の癒しと和解の旅」がきっかけであった。元英軍捕虜たちが、因島にやってきたのである。虐待で傷ついた捕虜の心を癒し、日本人との和解をすすめることをめざした訪問であった。
 しかし私は―日本側の歓迎チームに誘われて元捕虜との交流パーティーに出席したのだが―強い違和感を持った。元捕虜が語気を強めて語る、「原爆投下で自分たちも日本人も助かった」という原爆肯定論を受け入れることができなかった。さらに私が心を痛めたのは、元捕虜たちの活動を支援する日本人たちがそれを平然と容認していることであった。後日、その中心人物が「連合軍の捕虜を虐待したから原爆が投下された」と発言するのを聞いた。
 不思議だったのは―元捕虜たちが覚えていないはずはないのだが―因島に大きな空襲があったことに誰も言及しないことであった。ちょうどそのころ空襲の調査を始めた私は、いたたまれなくなった。パーティーの場に連合国側の民家への攻撃で死にかけた人間がいることを元捕虜たちに告げたくなったほどである。
 第二次世界大戦下に因島で何があったのか、私はその調査にいっそう真剣になった。2007年7月28日、初めての島をあげた因島空襲犠牲者慰霊祭を実現した。そしてその際、イギリス大使館、韓国領事館と連絡をとりながら、因島で亡くなった英軍捕虜たちと、空襲の犠牲になった朝鮮半島出身者への慰霊も同時に行なった。
 ところで今回、因島捕虜収容所問題についての問題意識を原稿にまとめようと思い、二つの資料を丁寧に見直すことにした。その一つは、テレビ朝日系列で2002年春に1時間にわたり全国放映された、ドキュメンタリー「212枚の認識票~英軍捕虜の傷痕と戦後補償~」(ABC、ドキュメンタリー工房制作)のビデオである。
 認識票とは軍隊において個人識別に使用される金属片のことで、氏名や階級などが刻みこまれている。第二次大戦下のイギリス軍は、それをチェーンで手首に巻きつけていたという。
 番組は、認識票が大阪城近くのGHQ関係施設の跡地から出てきたというところから始まっている。それらすべてが、日本で亡くなった英軍捕虜のものであることが分かり、取材陣は因島にやってくるのである。番組の半分が因島捕虜収容所の元捕虜たちの証言で占められているのではないかとの印象すら受けた。

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