因島にて… つかみかけた確信【51】

時代遺跡の島(2)
 防空壕 因島は、太平洋戦争下に使用された防空壕が多く残っている。それを見るたびにこの地は、戦場だったのだと思う。日本においては第二次世界大戦中に、米軍を中心とする連合軍による空襲が迫るなか、防空壕が一九四四年ころから軍需工場、学校、強制疎開跡の空地、個人宅内に大量に作られた。


 故中島忠由著「因島市百年史略年表(日立造船広島工場創業百年史)」の一九四四年の項に次の記述がある。

―重井村の深浦・小田浦、大浜の添川などが軍用地となった。戦局の敗色濃く、各地で防空壕を掘る。一月軍需工場の指定をうける。五月強制疎開命令がでた。

 造船所が軍需工場に指定された因島において米軍の空襲は予想された。やはり造船所のある土生町、三庄町、田熊町は、たくさんの防空壕が作られた。私が空襲調査において、アドバイスや貴重な調査資料の提供を受けている田熊町在住の中村公巳さんは、島内の防空壕跡を記録することの重要さを説く。
 中村さんと私は今年の三月、日立造船因島工場の旧事務所近くにつくられた防空壕を見学する機会をえた。二人の新聞記者が同行してくれた。現在はホテル「ナティーク城山」が立つ小山にU字形に掘られたもので、入口はふたつある。レンガによって壁面の強度が保たれ、天井は見上げる高さである。壕に入った途端に、その時代に滑り込んだ錯覚すら覚えた。
 この小山には壕が十四カ所あったという。また工場内のほかの場所に巨大な防空壕が数多く残っている。チャンスを与えられれば見学したいものである。
 今年の空襲記念日の七月二十八日に私は、中村さんから防空壕調査の中間結果を手渡された。彼の住む田熊町にある防空壕跡と日立造船因島工場に沿った道路の山側に掘られた防空壕跡の所在が記された地図である。中村さんの話によれば、工場沿いの道路を車からではなく歩いて見ると、たくさんの壕が発見できるという。私も一緒にこの目で確かめたいと思った。
 私が生まれ、空襲を受けた町にも大きな防空壕が残っている。旧日立造船三庄工場のすぐ近くである。おそらくそれは、ゼロ歳の私が空襲警報の出るたびに連れてこられ、泣きわめいたところなのである。
 これだけの数の防空壕だから、多くの住民が使ったのだろう。その記録はほとんどないのだが、私はその体験を記述した作文を読むことができた。大田(旧姓山崎)しどりさんが中学三年のときに書いたものである。彼女と私は隣り合わせに住んでいて、両家とも空襲で全壊した。防空壕の場面だけを引用してみよう。

―その日は、朝から空襲警報が出ているにも拘らず父は工場へ行った。出かけぎわに「空襲警報は出ていても、家の壕に入っていれば大丈夫だ」と言ったが十時頃、母は、私と妹を連れて、山の中にある部落の防空壕へ行こうとした。その時、私は「お父ちゃん行くないうた」と煮たじゃがいもを両手に持って駄々をこねた。それでも大きいリュックサックに着物、食物等を入れて、無理やりに連れていかれた。
 壕には大勢の部落の人が来ていて、とてもにぎやかだった。中で一時間位たった頃、部落長が「唯今、爆弾が落下し、山崎さんの家全滅」と言った。私はその時の母の顔は見ていなかったが、隣の叔母さんが「山崎さん、山崎さん」と呼ぶと、母は消え入るような声で返事をしていた。

 大田しどりさん小学二年の体験である。ゼロ歳の私は自宅に母と祖母とともにとどまり、全壊した家屋の下敷きになった。私が壕に入ると泣きわめくので母は、ふとん部屋でやり過ごそうとしたようだ。
(青木忠)

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