空襲の子【15】因島空襲と青春群像 62年目の慰霊祭 証言 星野正雄さん(上)

 因島中庄町の星野正雄さん(79)は、因島空襲の調査活動をつづけるわたしの心の支えである。日立因島工場の定盤工であった星野さんの職場は7月28日、爆弾の直撃をうけた。7人が死亡し、自身も間一髪助かった。本紙連載のサブタイトル「因島空襲と青春群像」は、当時歳だった星野さんたちをイメージしたものである。


 太平洋戦争下の日立造船因島工場で若者はいかに生き、いかに死んだのか。そしていかに戦後を生きつづけたのか。そのことをしっかりと受け止め、因島で生れ育った一人のおとことして自身を検証したい想いにかられた。
空襲当時の星野正雄さん
空襲当時の星野正雄さん
 数年前から星野さんには親しくさせていただいていたのだが、今年7月の「因島空襲を想い語る会」を1カ月後に控えた頃だろうか、家内を通じて「この青木さんはせとうちタイムズの青木さんでしょうか」という問い合わせが届いた。不覚にも星野さんが空襲の体験者であることを初めて知ったのだった。そしてわたしは、戦後60年を期してまとめられたというメモと図の発表を託された。
 当然のこととして、わたしは星野さん自身による公表を求めたが、体調が思わしくないことを理由に承諾していただけなかった。覚悟を決めてわたしは、7月23日の集りで、次のメモを読み上げた。

 戦後61年、因島工場空襲の想い。同一職場、死者7名、生存1名。私達の職場は芯出工場で総数約20名。職長1人、組長2人、伍長2人。工員15名。動員学徒尾商か10名。総員約30名の職場。

  1. 昭和20年7月28日早朝出勤時の空襲 米軍(戦闘機か偵察機)が旧木型工場→旧鋳造工場→定盤(芯出工場)→機械工場→機械組立工場(修繕工場)を目標に機銃掃射で海側通路を通り出勤中の土生小の越智君が死亡、機械工場内にいた岡崎さん(入社6年目)腰部貫通銃創
  2. 同日米空軍(爆撃機)の空襲で同職場の犠牲者
    1. 職長岡野孫三郎(田熊町)、伍長楠見高行、伍長中本(佐島の方)、入社5年目山田清一・きよかず・愛媛県、大塚・沼隈郡、入社4年目月本岡山県、入社3年目越智・福井、生存者1名入社4年目高島香川県出身。他20数名の犠牲者は他の職場(内1名機械組立工場佐藤)他不明。以上の犠牲者、定盤(芯出工場)用に職場に近い場所に作った簡易防空壕(30数名が避難できる。天井の土盛1メートル)での犠牲者。同一工場内で逃げ遅れた死者は数名朝鮮人労働者玉掛工
    2. 同日の米軍空爆で旧木型工場(木造3階建は全壊)。旧鋳造工場、定盤工場、機械工場、機械組立工場、修繕工場の屋根板の大半は爆風で吹飛び青天井になる。
    3. 2号ドック内の小型軍用船は大破、表門近くの岸壁で修理中の大型貨物船は火災発生(中央部分から黒煙)

 わたしはこみ上げるものに耐えて、みなさんの前で懸命に読みきった。何も考えずに淡々と読むことに努めた。読み上げることでわたしは、星野さんが何ゆえにご自分で読み上げることを遠慮なさったのか、その本当の理由を実感したのだった。写真で見る因島工場で働いていた若き日の星野正雄さん。現在のお姿にその面影を見る。
(続く)

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