因島にて… つかみかけた確信【43】

ある決心(1)
 9月初旬のことである。家内は私に、「東京大空襲で死んだ自分の家族のことを調べるために、息子を連れて親類の家に行ってくる」と告げた。そして、10月の連休を使ってその計画を実行した。人生の大半を東京で過ごした家内の実父は、広島県神石郡油木町(現在の神石高原町)に生まれた。その地域には今も、まもなく90歳になる姪が元気に生活している。


実父が東京に出たのは大正10年。日本大学法律科専門部に入学するためである。関東大震災のために同校を退学した後、様々な職業を経ながら、本籍を東京都城東区(現在の江東区)亀戸町におき、大正と昭和を生きた。結婚して3人の娘に恵まれ、生活も豊かであった。しかし、戦争で運命は一変した。
 昭和20年3月10日の東京大空襲は、妻(47歳)、長女(20歳)、二女(14歳)の3人の命を奪った。戸籍謄本には、昭和3月10日午前2時、空襲により死亡、と明記されている。父は不在で助かった。三女(11歳)は山形県への学童疎開をしていた。
 東京は無差別の空襲をうけた。終戦の日まで、およそ九カ月にわたり、120回の攻撃をうけ、11万人以上の犠牲者が出たという。そのうちで最大の惨禍となったのが、3月10日の空襲である。「東京大空襲」(早乙女勝元著、河出書房新社)は次のよう記している。
 ―未曾有の惨禍は東京東部地域に集中し、とくに本所区、深川区、城東区、浅草区の4区は全滅に近く、ほとんど無人の焼け野原となり、向島区、日本橋区がこれにつづく。本所区などは、その9割6分を一挙に焼失し、死者数は約2万5000人、深川区は約3万人、両区だけの死者でも5万5000余(帝都防空本部情報)となる。そして全東京35区のうちの3分の2にあたる26区が、なんらかの被害をうけた。
 これで東京の四分の一が見渡すかぎりの焦土と化し、100万人をこえる罹災者が出て、約10万人もの尊い生命が失われた。
 家族を失った実父はまもなく再婚した。山形に疎開していた三女は終戦を迎え、一旦は東京に戻ったが、広島県神石郡豊松村(現在の神石高原町)に住む父の姪のところに身を寄せた。地元の女学校に入学し、やがて東京都立の高校に転校した。
 家内は昭和25年の1月に東京都江戸川区で、父と新しく迎えた妻の2番目の娘として生まれた。しかし2歳を過ぎたころ、生活苦のなかで養女に出た。迎えたのは埼玉の子供に恵まれない夫婦であった。そこにも戦争の傷跡が刻まれていた。養父は、ニューギニア戦線でマラリアに感染し、高熱のために子供の生めない身体になっていた。
 家内は、埼玉県川越市の養父と養母の愛情のもとですくすく育っていくのだが、実父と実母との交流はなかった。父の記憶はまったくなく、母も覚えがないという。父は昭和34年に69歳、母は昭和55年に65歳で他界した。
 30歳を過ぎたころ家内は二人の姉と出会い、姉妹としての関係を築き始める。そのことで初めて、自分が生をうけた家族のことを知ることになった。
 東京大空襲のことを教えたのは、当時山形に学童疎開していた姉だった。平成18年の養母の葬儀でのことである。すでに養父はその10年前に他界していた。養父母が亡くなったことがきっかけだったのだろう。その話を聞いて家内は、あることに合点がいった。
 姉妹が再会した翌年に、誘われて千葉県松戸市の霊園に墓参りに行った。3月初旬のことだった。そのときには、何故そのひどりなのか理解できなかったのだ。ふたりの姉はそれを、家族3人が空襲で死んだ3月10日に合わせて決めていたのだった。

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