「橋本君輝昭に捧ぐ」司馬遼太郎の弔辞【終】

君は忠恕の二字に盡く

昭和18年9月、学徒出陣で兵庫県加古川の戦車第19連隊に入営。「寝台戦友」となった司馬さんと橋本さんは翌年4月、満州に渡り下級指揮官の養成所である四平陸軍戦車学校に入り同年12月には見習指官として牡丹江の戦車第一連隊に赴任しますが対ソ連車の威力の違いはどうしようもなく全滅を恐れ本土防衛のため呼び返されて帰還。相馬ヶ原から栃木県佐野に移動、ここで終戦を迎えました。

復員先は父母のいる大阪と神戸。駅に降り立つと視野に入るのは一面焼け野原。まちの通りは連合軍のGI(進駐軍)がはばをきかし、日本男子は肩をすぼめていた。

司馬さんは、とりあえず戦災をまぬがれた京都で新聞記者として社会人の第一歩を踏んだ。橋本さんは神戸の実家が空爆で焼け出され、父の仕事先だった広島県因島へ落ち着いた。このことを司馬さんは弔辞で「戦いの末期には、君は中仙道の山中にありき。戦いおわりて家郷の神戸に帰るに、すでに町も家も灰になり居たり。さきに中仙道の山中に在しとき、ひとりの乙女児を恋う…」と読んでいる。そして「君は父君の縁にて因島に住む。当座は漁釣りなどをし、年若き隠遁(いんとん=俗世間の交渉を断った生活)者のごとくして暮らせり」とも。

当時の橋本さんと筆者は遠縁に当たり近くて遠い尊敬する兄貴分の関係であったと独り限めしているが、戦災で焼け出された父母や妹に「みんな苦労したのだなあ。わしだけが、のんびり山の木の伐採作業をしながら終戦を迎えたのか」ともらしていたと聞いている。こんな心境で、戦時中に神戸の川崎重工から日立造船因島工場へ出向、英兵捕虜の作業指導をしていた父の耐火工事企業の跡継ぎになるには敗戦後遺症が薄らぐまでに時間がかかったようだ。

弔辞で橋本さんのことを「本土に某という印刷会社ありて社長死し、遺族途方に暮る。君、これを見、みずからゆきて再建し、それを遺族にわたして再び島に帰れり。(中略)その後、父君の事業を次ぎ、橋本組を興し、商いの道をはじむ…」と述べている。詳細については少し違った経緯があるが司馬さんは戦友の橋本さんが卓抜した英才を因島で埋らしたことを残念に思ったかを偲ばせる。

写真は因島公園内にある「つれしおの石ぶみ(因島ゆかりの文人墨客を偲ぶ散歩みち)」にある司馬遼太郎の書「一眼あり海上王国」で「龍馬が行く」(昭和37年―41)を執筆中のもの。

(庚午一生)

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