「橋本君輝昭に捧ぐ」司馬遼太郎の弔辞【9】

君は忠恕の二字に盡く

司馬さんは、弔辞の終りの部分で「君は一国の大臣をつとめる力量がありながら、父母や同胞の面倒を見るため因島を離れず、生涯『忠恕』(ちゅうじょ=真心を尽し他人を思いやる)の二字に尽く。橋本君輝明、君のような人はあまり見たことがない」と、追悼している。


寝台戦友の橋本さんの葬儀は昭和55年4月28日だったから司馬さんは「菜の花の沖」の連載中である。昭和54年4月から57年1月にかけて「サンケイ新聞」朝刊に連載、55歳から58歳にかけての長編小説。この小説の舞台と時代は書き出しの一文にあるように「淡路の島山はちぬの海(大阪湾)をゆったりと塞ぐように横たわっている」。瀬戸内海で一番大きい島である。

主人公は高田屋嘉兵衛(1769~1827)で江戸時代後期の海運従事者。淡路島に生まれ船頭となり蝦夷(えぞ=北海道)交易で成功。択捉(えとろふ)航路や漁場の開拓で功績をあげた。しかし、国後(くなしり)島でロシア海軍に拉致され、カムチャッカに幽閉されるが、ここでロシア語を学び、松前藩にとらえられたロシア艦長を弁護。国後島で測量中捕縛されたデイアナ号艦長ゴローニンと嘉兵衛らの交換釈放に成功した。嘉兵衛は、デイアナ号副艦長リコルドとの間に固い友情が芽生え日露関係の修復に尽力したという、あらすじ。

高田屋嘉兵衛が生まれたのは冬に北風が吹く播磨灘側で、在所(農村)と浦方(漁村)がいりまじってややこしいところである。11歳で家を出て、後半、海洋・外交のオーソリティとして歴史にその名を留めるわけだが、淡路―大阪間の航海を体験したのは18歳の時。本格的に航海を学ぶのは20歳からである。兵庫に出た水主(かこ)の仲間に潜り込んで、雇われ船頭となり、さらに郷里の弟たちに助けられて自分の船を持つ身となって屋号「高田屋」を名乗った。

その頃、幕府は択捉島との航路開拓を目指していたので、嘉兵衛は、御用船の船頭に登用された。航路や漁場の開拓にも成功、享和元年(1801)には苗字帯刀を許され、丈化3年(1803)には蝦夷地産物売捌方に任命された。その矢先、ロシア軍艦に拉致されるという災難に会うのだがこれも禍転じて福を招く結果を生んだ。

著者・司馬遼太郎は戦国時代や幕末維新・明治の人物を主人公にした長編は多いが、江戸時代は「菜の花の沖」だけ。その主人公嘉兵衛と橋本輝明の「忠恕」を重ねあわせるのは無理だろうか。

写真は函館にある高田屋嘉兵衛の銅像。

(庚午一生)

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