「橋本君輝昭に捧ぐ」司馬遼太郎の弔辞【8】

君は忠恕の二字に盡く

司馬さんの弔辞は終章になります。

君は、その家族の長(おさ)として父母に仕へ、同胞(はらから)に思いやりあり。
君の卓抜したる英才と敢為(かんい)の心はつとに私は知れり。君はゆうに一国の大臣をつとめうべく、一社の社長を余裕を以てつとめうべし。

然れども君は名利の市に出づることなく、ただただ因島を出ず。出でざりしは、始めは父母に住ふるためのみ。次いで同胞の面倒を見る為のみ。さらには因島の友人知己のためをはかるためのみ。

生涯、忠恕の二字に尽く。

橋本君輝昭、君の如き人を我は多くは見ざるなり。

在天の霊(みたま)に対し奉り全身を以て敬いの心を捧ぐ。宇宙の真理は夫レ輪廻のみ。世に在る、世に在らざるは輪廻の中の仮りの姿にすぎず。橋本君輝昭、わが悲しみと敬いの心を享け給へ。

昭和五十五年四月二十八日
司馬遼太郎

 

司馬さんと屈託のない会話の時を過せたのは昭和37年4月末だったと記憶している。ところは島根県浜田市の川沿いにあった木造三階建ての亀山旅館の大広間。窓の正面に見える浜田城跡「亀山城跡」を指差しながら「ここの殿様は隣の長州(山口県)軍が倒幕を目指し東上するさい、自ら城に火をつけ海上に逃げ出した」と司馬歴史観が始まった。何時間絶っても退屈しない。説きふせる術に吸い込まれ脱線した部分までがちゃんと脈絡を保っているという不思議な話術である。

この時、司馬さんはこんなことも云っておられた。「わたしの青春時代というのはあったような、なかったような感じです。」なにしろ学校は中途で兵隊にとられ、学校に行かないで軍隊にいるとき自動的に卒業させられて、戦争に負けて帰って来てからは新聞記者になって京都にいた。ああ、よかったということはなにもなかった。わたしたちの世代の青春はいくつかのタイプがあるけれど非常にうらやましいタイプというのは旧制高校へいったタイプ。そこへいけなかった者はまた違う青春があるというよりも、むしろ稀薄な青春しかない感じだと思う―と天井を見上げる。

橋本君は、わたしと違って体格もよかったし文武両道。入隊当時は助けてもらい命の恩人だ―とも。それに比べ司馬さんは軍隊の2年間で辛かったのは学生あがりの下級士官で戦車の修理もできない屈辱感を受け「技術」がときに「精神」を卑屈にしたり高貴にしたりするものではないかと思うようになり以来、技術に固執するようになったそうだ。

(庚午一生)

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