「橋本君輝昭に捧ぐ」司馬遼太郎の弔辞【5】
君は忠恕の二字に盡く
この時代の因島といえば軍需工場に指定されていた因島土生町の日立造船因島工場に約1万人、田熊村の卜部(うらべ)造船に約1000人が働いていた。
本工さんと呼ばれる正社員は約半数の5000人。下請け工員約2000人、兵役召集令状の「赤紙」に対し「白紙」の徴用工1000人。それに中学高学年の勤労動員500人、朝鮮人徴用工約300人で島の人口は御調郡下7カ町村で約3万5000人。昼間人口は愛媛県島しょ部を含め4万人をこえていた。徴用工の中にはプロの力士や歌手もいて地域の青少年のレベルアップに貢献。勤労動員では尾商、尾中、盈進商業が日立造船。誠之館中、土生高女が卜部造船へ強制労働にかり出された。
のちの尾道市長亀田良一氏、故福山市長立石定夫氏も中学時代を因島で過している。生前、立石さんから志願して出征する友人を田熊の港から送り出した思い出話を聞いたことがある。亀田さんからは今東光著の「悪名」のモデル麻生イトさんの追憶など。今は思い出の語り草になっているがやがて因島日立工場は土佐沖の米艦隊の空母から飛び立ったグラマンと呼ばれる戦闘機の空爆を受けることになるのだが都会をB29爆撃機で焼かれて因島へ疎開してきた家族にとってはやり切れない不安でいっぱいだった。しかも、今治市、福山市の次は尾道、因島、三原の順番だといわれていた。そして広島の原爆投下で敗戦を迎えることになる。(司馬さんの弔辞は続きます)
中仙道の乙女児を恋う
戦いの末期には、君は中仙道の山中にありき。戦い畢(おわ)りて家郷の神戸に帰るに、すでに町も家も灰になり居たり。さきに中仙道の山中に在しとき、ひとりの乙女児を恋ふ。ひそかに恋う。言葉さえ掛けざりき。家郷に帰りて、父君母君にそのことを語りしに、母君はいまからそのひとに会はむと仰言あり。ともにかの山中にゆきて村長(むらおさ)を通じ、その乙女児に会ふ。乙女児は身寄り、その姉とともに暮しき。姉は病み、すでに病篤し。橋本君輝昭、これを看病し、やがては村びとともに葬ひを出せり。その乙女児が橋本君輝昭の夫人たるは言うをまたず。君が忠はこの一事を以てしるも知るを得べし。
写真は竹やり訓練で米英駆逐に備えるヤマトナデシコ。
(庚午一生)
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